2006.08.31
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
余命告知という選択
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 その日、わたしは岩手の三陸沖にいた。  岩手の海岸というのは、ちょっとすごい。北リアス線鉄道というのは一応通っているのだが、基本的に人がほとんど住んでない。無人の海岸線が続いている。このへんの事情は吉村昭氏の「三陸沖大津波」を読むとわかると思う。このあたりで最大の町は「田老町(最近、宮古市に合併した)」というとこなのだが、この町、もともとは4000人の人が住んでいたのに、津波で流され、24人しか助からなかったという。つまり、ほぼ全滅である。こういう歴史があるため、岩手の北リアス線のあたりは、人が住まっているところがほとんどないわけだ。わたしは若いころ、青春18切符で三度ほど岩手の海岸を訪れた。人がまったくいない防波堤に腰掛け、ピーナツを食べていたら、足元でばしゃばしゃ水音がした。なんだろうと思って足元をのぞくと、ピーナツの欠片を争って食べている魚影で足元が黒くなっていた。海がきれいだとこういうことが起きるのか、と感動した。
 今年の夏は、三陸沖で過ごしたい。ふとそう思って、8月の初め、車にテントと寝袋を積んで旅立った。そして三陸沖では、無人の海辺にテントを張って 過ごした。オートキャンプ場を使わず(というか、そもそもそんなものはない)、その日に気が向いた場所でキャンプをした。携帯の電波がまったくたたない海辺だ。
 無人の海岸で二泊目を過ごした翌日、田老の小さな商店街に車で買出しにむかっていたら、携帯に母から連絡が入った。 去年の秋、癌研で付き添いをした(詳細は第74回からの「わかります和田先生、相続税100%を唱える気持ち」をご参照ください)伯母が亡くなったと。
 わたしと連絡がつかないうちに危篤となり、逝ったという。葬儀はどうするのだと問われて、
「いかない。いったところでしかたない」
と答えた。人が亡くなってから騒いだところで、どうだというのだ? 生きているあいだにしてあげてこそ、意味があるのに。
 ひとりで静かに心のうちで見送ろうを決めた。

 三陸沖に「碁石海岸」と名づけられた海辺がある。ちょうど碁石と同じぐらいの大きさの白や黒の石に覆われた海岸で、波が寄せて引くとき、ざあっ、ざあっ、と、波で石が研がれる音がする。
 わたしがその夜、テントを張った海岸も、碁石海岸に似た浜辺だった。ざあっ、ざあっと繰り返す音を耳にしながら、暗闇のなかで伯母のことを想った。 伯母は癌研に入院して、ひどく怯えていた。伯母の長男と次男の希望で告知されていなかったから、どうして自分が癌研にいるのかわかっていなかった。 伯母はわたしの手を握り、震えながらわたしに尋ねた。
「ここの部屋の人たちはみんな、がんだそうよ。わたしだけ違う。どうしてわたし、癌研に送られたのかしら」
 この病院に伯母を託したのは、癌研で修業をした医師である従兄弟のひとりだった。親族は彼を「院長先生」と呼んでいる。従兄弟が36人もいるので、いちいち名前を憶えられないため、こんな感じでそれぞれに通称がある。「院長先生」の病院は、がんの早期発見とターミナルケアのための施設だった。
 癌研に、がん以外の理由で入院させられるものか。
 けれどわたしは言わなかった。
 真夜中に恐怖から、
「助けて、助けて!」
と寝言で叫んでしまい、同室の人々に嫌がられているという伯母に、わたしは笑みを浮かべて言った。
「そうだねえ、驚いてるでしょう、こんなに大きい病院に送られて。でもね、伯母ちゃん、院長先生が言ってたんだけどね。治療は自分のところでもできるけど、伯母ちゃんが自分の母親だったらこうしてあげたいと思うのと同じだけの、最高の治療を受けてほしくて癌研に入院してもらった、驚いてるだろうけど、自分のところにいるよりずっと高度な治療が受けられるからがんばってほしいって」

 いま告白しよう。全部、嘘である。
 1から10まで、わたしが作った話である。
 わたしは平然と嘘をついた。ほがらかに。

 すると伯母はわたしの手を握り締め、感涙した。
「そうだったの。院長先生がそんなことを。ありがたいわね。ほんとうにありがたいわね。そんなにわたしのことを思ってしてくれたことだったのね。文句をいったらバチがあたるわね。わたしはN家の人間なのだから、院長先生に恥をかかせないようふるまわなくてはならないわね」
 わたしはウハハと笑いながら、伯母の肩をたたいた。
「まあ伯母ちゃん、そこまで気張る必要はないよ。とにかくきっちり直してもらって、帰ろうね、Kちゃんが待ってる。あとひと踏ん張り、がんばろう」
 伯母は院長先生のところで検査を受けた時点で末期がんで、大きく育ったがんが胆管を圧迫していた。癌研が処置としてしたのは、胆管の代わりとなるバイパスを作ることだけだった。
 あの時点で、伯母は余命3カ月といわれていた。
 しかし結局、1年近く生きた。
 伯母は気づいただろうか、自分の命運に。わたしの嘘に。




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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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