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成長というのは自己否定と自己肯定の揺れ動いた果てにある。
と、個人的に思っている。
たぶん多くの人が同じではないかと思うのだけど、わたしの思春期の前半は、
「わたしであるのが嫌だ」
という猛烈な自己否定感から始まり、最終的には、
「ま、わたしがわたしであってもいいか」
という肯定に流れが変わって、思い出すだけで恥ずかしくなる人生の、いちばん醜い季節にピリオドを打ったように思う。ああ、痛い奴だったなあ、自分は。という慨嘆はさておいて、先週、
「自分はトランスジェンダーにかなりの部分、足を踏み入れていて、こっちに転んでいたとしてもおかしくない要素は持っていたぞ」
と、しごくおっかない事実を、
「もしかすると、そうかもしれません」
と、おずおず肯定するような、いやこわいんで大声で否定したいような、揺れ動く気分を語ってみたわけだけど、先週からじーっと考えてみたら、自分のなかで転換期があって、自分はかなり意図的にトランスジェンダーの側の道を選択しなかったという気がしてきたのだった。
で、このバックボーンになったのが、松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』だったのだ、たぶん。
人生に何度か、
「しまった、すごい本と出会ってしまったぜー」
とダメージを受けたことがあるけど、これはわたしにとってはそうした本の三本の指に入る一冊だった。軍用品払い下げを扱う、いわゆるミリタリーショップで迷彩服と鉄板の入った安全靴を買い求め――ああ、本当に痛い、痛すぎる――そういう格好で池袋をぷらぷらと歩いていた十代の終わり、西武の小綺麗な本屋にその本は平積みになっていた。
女性がさかだちしてスカートがめくれてパンツが見えてる。なんかそういう表紙がみょうに目について、誘われるように手にとった。いまだに、あの十代の終わりのあの瞬間が脳裏にやきついている。ぱらっと読んで、焦った。
レズビアンの人の話じゃないか。
なんじゃこりゃあ。
あわてて書棚に戻そうとして、ふと思いとどまった。
ま、なにが書いてあるのか、読んでみようか。
一種、挑戦するような気分だった。わたしの知らない世界も見てやる、というような。
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