2006.12.21
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
ギャンブル依存症と神という概念 その3
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 わたしは斎藤先生の功績を、一部は認めている。先生が著書で強く世の中に訴えるまで、児童虐待という概念はこの国に行きわたらなかったのだから。定着したのは、90年代の後半にやや差し掛かった頃だろう。
 わたしがいまも記憶している事件がある。それはたしかわたしが中学の頃に起きた事件、すなわちいまから25年ぐらい前の話だ。母親が失踪して父と祖母の下に残された少女が、牛舎のなかで縛られ、逆さ吊りにされて一晩放置され、翌朝には亡くなっていたという事件である。新聞には「せっかん死」と書かれていた。いまもあの「せっかん死」のロゴが脳裏に浮かぶ。子ども心に思った。「せっかん死」ってなんだ? なぜ「実子殺人事件」と表記しないのだ。母親が残していった子どもを、姑と父親は憂さ晴らしにリンチしたのだ。状況を考えれば一目瞭然ではないか。
 当時、ここまで自分の思いを自覚はできなかったが、
「なぜこれがまかり通る世の中なのだ。なぜ殺人事件として裁かれないのだ」
という問いはわたしのなかにいつまでも残った。
 中学校の校庭の鉄棒で、頭を下にしてぶら下がってみた。どんどん頭に血がのぼり、1分だってわたしは耐えていられなかった。あの女の子は、こんな苦痛のなかで死に至ったのか。どれだけ叫んだだろう。どれほどの絶望のなかで、死んでいったのだろう。
 また、時期をほぼ同じくして、こういうことがあった。
 中学生であったわたしは、2年後に受験する地元の高校の文化祭へと足を運んだ。茶道部でお菓子をいただき、作法を教えてもらいながら抹茶を飲んだ。そのときに紫色で長方形の、不思議な和菓子が出た。わたしは茶室の雰囲気とこの和菓子がとても気に入ってしまい、どこの和菓子店のものかを尋ねた。
 当時、城下町の名残がまだ残っていて、いまはシャッター通りとなってしまった商店街にも、数件の和菓子店が商いをしていた。茶道部の、未来の先輩たちからその店の名と場所を教えて貰ったわたしは、そういえばあそこにも立派な和菓子屋があった、けれど母が一度もあそこで買い物をしたことがない、と気づいた。ふと、変だな、と思った。というのは、父が営業で得意先に配る菓子折が父の車にはいつも10個単位で積まれていた。このため、得意先が飽きないようにと、和菓子、洋菓子問わず、母はさまざまな菓子屋からこれらの菓子折を調達していたからである。
 文化祭から帰ったわたしは、その和菓子屋の名前を告げ、母に、
「あそこで作っている紫色で四角い和菓子が食べたいんだ」
とねだった。すると母は、なんともいえない微妙な表情を浮かべ、
「ああ、あの店ねえ……。お母さん、なんだか嫌だわ。お金をあげるからおまえが自分で買っていらっしゃい」
 過去になにか嫌な思いをしたことのある店なのだろうか。
「どうして? どうしてお母さんは嫌なの?」
 母は一瞬、逡巡していた。それから低い声でこう告げた。
「あの店はねえ、赤ちゃんがふたり死んでいるの。あそこのお姑さんというのはお嫁さんに辛く当たる人でね、産後の肥立ちが悪いお嫁さんを店で働かせて、赤ちゃんにお乳をやることも滅多に許さなかった。だから、赤ちゃんは栄養失調で死んでしまったの、ふたりも。それでお母さん、あのお店がなんとなく嫌なのよ。店構えも立派だし、お菓子も評判はいいけどね」
「死んだの? ふたりも」
「そう。だからお母さん嫌なのよ。あの店に入りたくないの」
 母の暗い横顔に、子供心に衝撃を受けた。
 いまだったら絶対に事件として取り上げられた虐待死だと思う。けれど当時は、こんな事件を起こしたからといって、だれも罪に問われなかったのだ。
 児童虐待は、昔から存在した。いまになって増えたのではない。児童への虐待は、「せっかん」という名のもとに許されていたのだ。児童虐待という概念、それ自体が存在しなかったのだ。




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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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