2006.12.28
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
ギャンブル依存症と神という概念 その4
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 さて問題は、こういう、帚木先生曰く「人間の仮面をかぶった鬼」になってしまったギャンブル依存症者を治療する方法である。帚木先生は、ある意味、とっても投げやりである。

 借金は本人に返済させる。一生かかっても払い続けさせる。払えない場合は自己破産にする。これが治療の端緒である。

 依存症者の家族や恋人が望んでいるのはこんな結論ではなく、自分たちが窮状に手を差し伸べたことで本人が人の真心に触れ、心を入れ替えてくれることだと思うんだが、あなたたちの手ではどうやったって無理なんですよ、そりゃドリームですねと、帚木先生は仰っているわけだ。わたしはこれに同意する。そしてその先はどうすればよいか。帚木先生はこれもまた、ある意味、とても誠実に投げやりである。

 そして肝腎の治療は、ただひとつの道しかない。精神科医に診断してもらい、少なくとも月に一回外来診察を受け、自助グループのGA(ギャンブラーズ・アノニマス)に週一回以上通い続ける。

 わたしは帚木先生を『日本の論点2007』で初めて知ったが、依存症者の界隈ではかなり有名な人物かもしれないと、この一文で推察した。精神科医に外来診断してもらうというというクッションを置くものの、箒木先生は、
「わたしに出来ることはなにもありませんよ」
と言ってるに等しい。自助グループというのは、まさに自分たちの手で自分たちを助けるためのグループであって、“他助”ではないからだ。治療者としての立場の人間は、ここにいてはならない。帚木先生は患者たちにそこに通ってくれと提案することで、治療の現場から自分自身を排除したのである。わたしが斎藤先生のミーティングを「不思議な光景」と表現したのは、あの場には治療者である斎藤先生が立派に君臨していたからだ。AAにルーツを持つ自助グループは、神以外のどんな権威も認めてはいないのに、である。
 ここからはわたしの解釈として聞いて欲しいのだが、わたしは『AAの12のステップ』を、あらゆる信仰というものの核である「自分より高次の存在があると認める」部分だけ抽出して凝縮した思想と受け止めている。けれどAAは宗教ではない。なぜならAAには、どの神を敬うのかの規定がまったくないからである。むしろ、特定の神を奉じることは未来永劫あってはならないというのがAAの立場である。特定の宗教・宗派の話をミーティングの場でしてはならないという但し書きもあるという用心ぶりだ。AAの先人たちは、一歩間違えばいくらでもAAがカルト化する要素があるのを熟知していたのだろう。ではカルトとはなにか。わたしの考えを述べるならば、
「生き神様を持ってしまった、あらゆる信仰」
なのである。
 だれの言葉かは忘れたが、人は自分と似た姿を神に求めるという金言があったように思う。もし人が牛のようであれば牛の姿に似た神を、馬のようであれば馬の姿に似た神を、求めただろうとその言葉は続いていたと思う(余談だが、神がもし存在するなら、人間には想像のつかない姿形をして、まったく次元の違う意思を持つ存在ではないかとわたしは考える)。だから人は人を神としてしまったほうが――目に見えない、存在を確認できない神を求めるより、人を神として祀ってしまうほうが――よほど容易な道なのだ。なにせその“神”は、目の前に現れ、言葉すらかけてくれる可能性もあるのだから。しかし人は人以上でもなければ人以下でもない。おのずと限界があり、衆生を救うものにはなれない。

 この話、次週で結論めいたものを出します。

 つづく。



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