二○○八年(平成二〇年)六月、秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大容疑者が、派遣労働者として、トヨタ系自動車組み立てメーカーに派遣されていたことと、本人自身がその「存在の軽さ」を携帯サイトで訴えていたことが報道されて、福田首相と舛添厚労大臣とが、危機感とともに派遣制度に言及する事態になった。 それより二二年前の一九八六年(昭和六一年)、「労働者派遣法」が施行されたとき、これほど悲惨な犯罪が発生するとまでは予想しなかったが、労働者の雇用が不安定になるのは充分に予想できていた。戦後に制定された「職業安定法」の法の目を潜るのが、新法の目的だったからである。 職業安定法の第四四条には、「何人も……労働者供給事業を行い、又はその労働者供給事業を行う者から供給される労働者を自らの指揮命令の下に労働させてはならない」と定められ、労働者を募集する場合でも、「財物又は利益を受けてはならない」とされている。 この法的規制は、港湾労働者の手配と供給から出発した、山口組など顔役(労働ボス)の暴力支配とピンハネの悪弊を絶つためだった。労働基準法、労働組合法、労働関係調整法などとともに職業安定法の制定は、労働者の権利を保護するためのものだった。これらGHQの民主化政策によって、ようやく日本でも、労働者の人権は経営者と対等であることが世に示されたのである。 「労働者派遣法」が制定される二年前、八四年一一月、中央職業安定審議会がまとめた「労働者派遣事業問題についての立法化の構想」のなかに、概略つぎのように書かれている。 近年におけるマイクロ・エレクトロニクスを中心とした技術革新によって、「専門的な知識、技術、経験など」を活用する職業群が増加し、自己の雇用する労働者を別の企業に派遣し、そこで就業させる形態の事業が増加している。そのために新たな観点からの対応が必要である、と。 このときの「派遣」は、「専門的な技術、経験」者を対象にしていて、いまのように生産現場やサービス業に派遣されている、未熟練、単純重労働などの労働者群が対象ではなかった。急激にすすむコンピュータリゼーションへの対応策だった。
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