「このまま追い出されてホームレスになるか、自殺するしか方法は残されていないのでしょうか……」「色々自殺なんかも考え、未遂に終わったり、生きていても死ぬか悪いことをして刑務所暮らしするしかないのかとか考えたり、私の生きる意味がまったくわかりません」「今までなんとかダマしダマし生きてきましたが、そろそろ限界みたいです。自殺も考えましたが死ぬ勇気もなく、働きたくても職がなく困り果ててます」―私の所属するNPO法人自立生活サポートセンター・もやいには、こうした悲痛なメールがほぼ毎日のように届く。 ふつうは、私たちの団体など知っている人は少ない。こうして連絡をくれる数十倍、数百倍の人たちが、どこに連絡したらいいのかもわからないまま、物質的にも精神的にも放置されていることを考えると、社会の無力さ、理不尽さ、冷淡さに憤りを感じざるを得ない。 「健康で文化的な最低限度の生活」を保障している憲法二五条のもとでは、人々を最低生活ライン未満に放置しておくことは許されないはずだ。しかし現実には、一五四万人もいる生活保護受給者の五〜六倍の人数が、生活困窮状態にあると指摘されている。八〇〇万人もの人たちが最低生活ライン以下で暮らしている可能性があるという計算だ。この数は、東京二三区や大阪府の人口に匹敵する。 この間、企業は「グローバル競争に勝ち残るためには仕方ない」と、株主配当・経営者報酬・設備投資を増やし、正規から非正規への雇用代替を促進し、労働分配率を低減させてきた。国は「財政がひっ迫しているから仕方ない」と、社会保障費を抑制し続けてきた。かつてのような右肩上がりの経済成長は期待できないから……、自治体の予算も限られているから……と、「仕方ない」の大合唱だ。小泉改革とは、颯爽とした様相や威勢のいい掛け声とは裏腹に、実際には「仕方ない、仕方ない」を連呼する、後ろ向きの諦念改革だった。それは今も続いている。 その結果、少なからぬ人々の暮らしが成り立たなくなり、貧困が拡大し、生きる希望を失った。自暴自棄になった人たちが、自傷(一〇年連続三万人超)や他害(無差別殺傷事件)を起こすにいたっている。それは、この間の構造改革路線が被用者・自営業者・失業者・年金生活者・生活保護受給者ら、あらゆる人々の生活基盤を掘り崩してきたことの当然の帰結である。べつだん人々が以前にくらべて劣化したわけでも、根性がなくなったわけでもない。
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