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いま、『新潮45』という雑誌で「おんな日雇い稼業どん底渡世」という連載をやってる。
二年ほど前になるんだけど、この「時事音痴」でも、明けても暮れても貧困問題ばっかり気になって題材にしていた時期があった。それでまあ、わたしは現実に現場をこの目で見てみるべく、初のノンフィクションに手を出したのである。
料亭で働いてみたら、とある政治家のとんでもない実態を目の当たりにしちゃったり、身の危険を感じて別の仕事を探してみたら風俗だったり(面接に行ったら「素また」なるものの特訓をしないとならないと言われて、目が点になった)、あれこれあった。詳細は連載を読むかその後発売になる予定の書籍を買い求めていただければと思うわけですが、その後の展開はというと、わたしが「まっとうな職」を求めて、足を棒にして求職活動に励むという流れになる。
するとどうなったか。
行く先々で待ち構えていたのが、「人材派遣会社」だったのである。
まだ連載では明らかにしていないが、取材も終盤に入った時期、わたしは「PCでの入力のお仕事」というのに応募した。わたしはこの仕事の面接に行った。すると、である。この仕事も派遣会社が仕切っていて、本来の雇用主は旧社会保険庁、すなわち現在の「日本年金機構」であった。
この仕事、悲惨の一言に尽きた。
わたしが通っていた日本年金機構の事務所は、運賃が高いことで悪名高き「新交通ゆりかもめ」の沿線にあった。新橋からゆりかもめに乗って、国際展示場前の駅につくだけで370円かかる。まさか新橋に住んでいる人はいないと思われるので、さらに交通費の負担は増す。しかしこの仕事、時給はわずか850円なのに、
「交通費の支給はない」
のである。
仕事は朝9時から夕方5時半まできっちり。
内容はといえば、主に保険の打ち切りである。
名前と読み仮名を打ち間違えないよう、原義と呼ばれる役所に提出された書類とにらめっこしながら、キーボードで入力していく。他人様の年金であるとか保険であるとかを扱う業務なんだから、プレッシャーは大きい。しかし初日から現場に放り出されたような格好で、研修らしきものは小一時間ぐらいしかなかった。派遣の仕事というのは「専門性の高い仕事」に限られるとどこかで耳にしたように思うが、これのどこが専門性が高いのか、問いたい。問い詰めたい。わたしはブラインドタッチの速さしか誇るものはなかった。もっとも、役所の仕事は多岐にわたるので、現場で覚えるべきことは多々あったが。
終業時間に近づいた頃には、右腕がキーパンチャー病のようになって、だるくてキーボードを打つのが辛かった。
このように地獄のような責め苦から解放されて、さてわたしの手元に残る月額はどれぐらいだったかというと、単純計算でいけば月11万弱である。ここから交通費が出ていく。わたしの脳裏にいまも焼きついている。いつも毛玉のついた古ぼけたセーターを着た、白髪交じりの頭の中年男性である。彼も無論のこと、派遣労働者だった。イレギュラーなケースがあるたびにその対応を憶えていかなくちゃならないのだけど、彼はそれに精通していた。しかしながら、この仕事、わたしのようにパッと入りたての阿呆でも、彼のごとく熟練工のようになろうと、
「時給は永遠に変わらない」
のである。
一方、この部屋のなかには、日本年金機構の職員たちがいた。いいスーツを身につけ、お喋りに花を咲かせながら、楽しそうにやってる。ちなみに派遣労働者は、
「私語厳禁 入力集中」
という張り紙がなされているので、無言でキーボードを叩き続ける。
どれだけ努力しようが埋まらない格差が、ここには存在した。
わたしは日本年金機構の事務所を出て、暮れ行く空を見るたびに思った。
「嗚呼。この世というのは、美味しいポジションを先取りした人間と、それが不可能だった人間の二種類で構成されている。そしていまの日本という世の中は、どれだけ努力しようとも、その格差は埋まらないように仕組まれているのだ」
鎌田慧の『自動車絶望工場』(講談社文庫)はタイトルだけしか知らないが、わたしにとってのこの職場は、「絶望日本年金機構」だった。交通費を差し引くと、ともすれば東京都が法的に定めている最低時給を下回るかもしれない仕事。しかし職がないという理由でみんな泣き寝入りしている。月11万に満たないかもしれない生活費で、日本年金機構から「将来」なるものの年金や保険料を差っぴかれ、光熱費を払い、場合によっては家賃も捻出する。
どうやって生きていけというんだ?
わたしは問いたい。
しかし現実問題としていま職探しをしていると、必ずぶち当たるのが派遣会社なのである。いまや一大産業といってもいい。直接雇用なんてのは、風俗があったぐらいのものだ。
どうしてなんだ。どうして人の労働から中間マージンを差っぴくだけの企業が、これだけ林立できるんだ!
なにかがおかしい。歪んでいる。
わたしはこの状況に、既視感を覚えた。バブルの余熱が残る90年代初頭の下北沢の街を歩いていたら、数十メートルおきに不動産屋が林立していた光景である。あのときも思ったのだ。どうして土地転がしをしているだけの業界がこれだけ繁栄しているのだ、と。この歪みが日本に残した痛手は大きかった。
わたしは憎悪する。
派遣法が強化されたら日本企業が外国に逃げていくなどとわたしたちを脅す人々を、わたしは憎悪する。
実際に現場で働いて、月額11万円に満たない金額で生活してみろ、そしてその絶望を味わって来い、と言いたい。
腹を満たすために、カップラーメンばかり食ってる生活を送ってみろ、と言いたい。
これは近い将来、親が子供に言い聞かせる言葉が「努力しないと派遣社員になっちゃうんだよ」になる日も近いかもしれないと、黒い笑いを漏らしたくなるほどだった。
ついでの勢いで言わせてもらうが、わたしは「努力すればなんとかなる」という言葉も大嫌いである。人間、努力できなくなる時というのがある。順風満帆の人生を送っている人でも、ふいに足元をすくわれることだってある。これはわたしが自分の過去を振り返って思うことだ。
別段、恨み辛みをここで述べるつもりはないし、もう自分のなかでは過去のことに落ち着いているのだが、わたしは中学時代、
「自分の努力で自分の人生を切り開こう」
と思っていた。要するに家から逃げ出したかっただけなのだが、努力でその道を切り開こうと思っていたのである。スポーツが苦手なのは重々承知していたので、あとは勉強である。中学生にしては、けっこう勉強に励んでいたほうだと思う。結果もそれに付随した。わたしは中学生なりに必死だったので、結果を出せない他のクラスメイトたちを、ある意味では蔑視していた。
あのまま行けば、たぶん、かなり嫌な奴になっていたと思う。
もっとも、いまの自分の立ち居地の不安定さを考えるに、嫌な奴でいるぐらいのほうが、人生は楽だったろうなと思うけれど。
落とし穴は、中学二年のときだった。
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