もう八年前になるが、私は『不幸論』(PHP新書)というヘンなタイトルの本を刊行した。厳密に考えると、誰も完全に幸福にはなれない、自分が幸福であると思うのは「そう思い込みたい」だけ、すなわち自己欺瞞だという長年の思いを書き連ねたのであるが、少なからぬ反発・反感を招いた。これは予想できることであったが、予想をはるかに超えたコミュニケーションギャップの存在を思い知らされた。 右の書で、私は幸福のための四条件を挙げた。(一)自分の特定の欲望がかなえられていること、(二)その欲望が自分の一般的信念にかなっていること、(三)その欲望が世間から承認されていること、(四)その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。 (一)から(三)までは説明を要しないであろう。私はいま「哲学塾」を主宰し、哲学的・非哲学的著作をして金を稼いでいる。すべて自分のしたいことばかりである。したくないことは何もしていない。よって、条件(一)は完全に充たされている。また、「自分のしたいことのみをして金を稼ぐ」という原則は、私が若いころから目指してきたことであるから、条件(二)も通過する。さらに、このことは麻薬密売人やテロリストと異なり、世間から(一応)承認されているから、条件(三)もどうにかクリアする。 だが、だから私は幸福だと宣言するほど、私は単純バカではない。周囲を観察してみよう。ひと握りの幸運な者以外、膨大な人が何もしたいことを見つけられず、見つけられてもそれをすることが許されず、許されても社会的に評価されない。そして、(たぶん)そのまま死んでいくのだ。いや、それ以前に、病や孤独や被差別に痛めつけられ、犯罪に手を染め、生きるのが精いっぱいの人も少なくないであろう。彼らは小賢しい条件を挙げるまでもなく、文句なしに不幸である。そんなとき、私が死に物狂いで(一)(二)(三)の条件を充たす生活を勝ち得たとしても、他人はおいそれとは私の「幸福論」を認めてくれないであろう。 それを見越して私は最後の条件として、ほとんどの人が考慮に入れない(四)を付け加えたのだ。たとえ私が意図的に他人を不幸にすることがなくとも、結果として好きなように生きることのできない膨大な人々を傷つけ、苦しめてしまう。もっとわかりやすい例を挙げよう。聡明で、イケメンで、人間的魅力あふれ、だから「もてる男」は、彼の存在自体がノロマで、ブサイクで、面白みのない、だから「もてない男」を不幸にする。個人間の格差は生きていく気力を失わせるほどであり、しかも人はその格差を知りながら「客観的評価」を下す。これは理不尽の極みでありながら、何の解決もない。これをまともに見据えるとき、ほとんどの人はまっさかさまに不幸に陥るはずなのだが、そうならないのが不思議である。 さらにあと一つ、私にとっては当然すぎるほど当然なので、算入しなかった不幸の理由がある。それは、すべての人は自分の意志でなく地上に産み落とされ、しかももうじき死んでしまうということ、その限り、人生にはいかなる意味もないということだ。こうして、私にとって、誰ひとりとして幸福でないことは自明の理である。それにもかかわらず、あえて自分が幸福だと主張する人は、鈍感か、バカか、自己欺瞞か、いずれかなのである。
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