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そのとき、わたしは肩で息をしながら、小雨降る甲州街道沿いの児童公園で涙ぐんでいた。
一昨年の10月は、生涯忘れられない年になると思う。
それぐらい、悲惨だったということである。
もういい年なので、仕事で多少辛いことがあっても泣いたりしないのだけど、あのときは思わず泣いた。人目を憚り、暮れゆく公園のなかで、
「この仕事を落とすか、自分が死ぬか、どっちかかもしれん」
と思っていた。
この時期、わたしは『60年代 「燃える東京」を歩く』という本に関わっていた。「アベベと歩くマラソンコース」なるコーナーを任されたのである。それで、千駄ヶ谷の国立競技場から、アベベが東京オリンピックで走った42.195キロメートルを、全部踏破せよ、しかもアベベが走ったのと同じ10月21日に、と編集者から命じられていたのだ。理由は、
「アベベの気分になってみろ」
という訳のわからんもの。ローマ大会では裸足でマラソンコースを走りきって優勝したようなアフリカ大陸原産の男の気持ちが、同じ道を歩いたぐらいでわかるか、やっても無駄、無駄、無駄ァ! と言いたいところだけど、そこはライターの悲劇。編集者には逆らえない。
その日、わたしは38度台の熱に苦しめられていた。
朝から歯がかみ合わぬほどガチガチ震えて、ルルという市販の風邪薬を定量飲んでも効かぬから3倍にして、上がりゆく熱に対抗した。アベベが走り出したという午後1時を迎えるころには、身体の諸症状はさすがに3倍の威力で訳がわからなくなってきたんだけど、熱だけはあいかわらず体内でくすぶっている感じがしていた。おりからの小雨。自分のマンションを無理やり出たのはいいが、地下鉄の乗り継ぎにも息が切れるありさま。行く手には42.195kmの距離が、アマゾン川の川幅ですかと尋ねたくなるように、わたしの前に立ちはだかってくる。このまま42.195kmを歩いたら、うっかり死ぬかも。傘のなかで涙が出てくる。
結局、コースの4分の1ほど来た桜上水の駅のあたりで編集者に泣きながら電話を入れて、今日はとても歩けないこと、自分の体調が激しく悪いことを伝え、後日にすることを許してもらったんだが、無理がたたったのだろう。その後、2カ月にわたって夕方になると37度台の熱が出てくるそら恐ろしい日々を過ごすはめになった。そして結局、42.195kmを、2度の挑戦で歩きとおした。ホントのホントに、死ぬかと思った。
こんなわけで、「アベベと歩くマラソンコース」の原稿は、思い出したくない仕事の3本の指に入っている。マジで死ぬかと思いました。
しかしこの仕事のおかげで、オリンピックやその周辺に関する変な知識だけは増えた。
昭和26年、日本人として初めてボストン・マラソンで優勝した田中茂樹という選手がいるのだけど、この人、優勝したときに、ほぼパニック状態に陥っている外国人記者たちに囲まれた。なぜかというと、
「日本人は足の指が2本しかないのに、マラソンが走れる」
と、記者たちはびっくりして、田中選手の足を見せろと迫ったというんである。
田中選手には立派な5本の指があった。
しかし、シューズなどという洒落たものがないから、彼は「地下足袋」を履いて走ったんである。このため外国人記者は彼をみて、日本人の足が、豚足のように、ふたつに分かれていて、2本しかないと思ったという。田中選手に地下足袋を脱がせて真実を知った外国人記者たちは、心からホッとしたという。
つまり、なにが言いたいかといえば、
「地下足袋でもボストン・マラソンには勝てる! いや、地下足袋で通したからこそ、たぶん勝てた」
なのである。
今回の冬季オリンピックは、あれだけの大選手団を送りながら、悲惨な結果であった。荒川静香選手がアジア初のフィギュアスケートにおける金メダルを獲得したから、なんとかギリギリ救われたけど、彼女の成果がなければ、とことん、悲惨なオリンピックで終わっていたと思う。
そもそも世界の舞台で活躍するアスリートなんていうのは、化け物である。わたしは東京オリンピックのマラソンコースの片道ですら6時間半ほどかけて歩いたんだけど、それでも十分に死ぬ思いだったのだが、連中ときた日には42.195kmの全距離を2時間ナンボで走ってしまうんだから、とんでもない。なので、ど素人が、
「どうして今回のオリンピックは不調で終わったのか」
などと分析するのは、自分の頭脳で相対性理論を考えつこうと思うのと同じぐらい無茶で無謀で、かつ、測量機器も持たずに日本全土を測量してやろうとしてみるぐらいに無意味な推測にしか終わらないわけだが、ま、ようするにオリンピックで興奮したから、なんか一言いってみたいと。それだけなんですけどね。
ボスは今回の結果を、日本のオリンピックの選手を選考するような立場にいる偉い人が言ったことを引き合いに出して、
「いままで培ってきた財産を、もう食いつぶしてしまったと。長野オリンピックまではいろんなことをやってきたけど、次の世代がオリンピックを支えるようなシステムを作らなかったと。ジャンプ陣も、シニア部門みたいになってる。若い人を育てられなかったというのが決定的だ」
といっていたけど、まさにジャンプはそうですねとしかいいようがない。だってねえ、原田選手なんて長野オリンピックのときですら、大ベテランの選手だったよ。それまでに何度も引退を考えたというくらいの。今回のトリノに出ていると知ったときは、
「まだ飛んでたの?」
ってびっくりしたもん。ホント、長野のときの財産をそのまんま流用しましたという感じだった。
しかしそれ以外の面においても、オリンピックに出ている日本人アスリートを見ていて、
「なんだかなあ」
という気持ちをぬぐえなかった人が、大多数なんじゃないかと思う。
叩かれすぎているのでもう名前を出すのも可哀想であるが、安藤美姫選手とかね。4回転を「飛ぶ飛ぶ詐欺」とかいわれて。でも、いわれるのもまあしょうがないっていうか、だってねえ、途中でもうやる気を失っちゃってるのが、フィギュアスケートに関してはど素人のわたしでもわかるような、もうちょっとなんとかなったんじゃないのという滑りだったもん。まあ、わたしはやれといわれても絶対できないことを彼女はしてのけているわけではあるが、それでも、ねえ。4回転が飛べないのはいいけれど、彼女がもう少し精神面を鍛えて、最後まで諦めない滑りを見せていたら、これほど叩かれずに済んでいたと思うわけだ。
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