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| しかし、癌が見つかったときの父はお先き真っ暗になったらしい。 そのときは、父はまだ沖縄に住んでいて、癌をみつけてくれた医師は沖縄の人だった。でも、もし手術ということになればわたしが面倒見やすい場所がいいので、東京・江東区の癌研に紹介状を書いてもらったんである。
 東京へやってくると、父は、練炭自殺をわたしにほのめかしだした。
 「あっさり死んじまったほうがいいんじゃないか」
 と苦悶の表情でいう。沖縄の父の部屋のトイレには、
 「火力が強い練炭」
 というのが、たんと積んであった。というのも、以前から父は、
 「苦しんだ挙句に死ぬ」
 というシチュエーションをとっても怖がっていて、
 「死ぬならあっさり死にたいから、拳銃をどっかから調達してきてくれ、マキコ」
 とか、娘によく無理難題をいっていた。で、銃刀法違反など犯したくないわたしは、父に、
 「お父さん、あっさり死にたかったら練炭だね。一酸化炭素中毒は楽みたいだよ」
 と知恵をつけたら、
 「そうか! わかった」
 と、次の日にはホームセンターで練炭を買い求めてきたのである。
 わたしはその翌日に神奈川でイカを釣る取材が入っていたのだが、見張ってないとヤバい雰囲気を感じて、編集者に土下座してイカ釣りの取材をドタキャンした。
 「切れば治るよ」
 とにかくそれを繰り返すしかない。
 父はかなり懐疑的だったが、このとき唯一説得力を持ったのは、先に手術をして元気になってる母の存在だった。
 「お母さんなんてもうあんなに元気だよ。術後、たった十日で退院して、来年一月には一緒にタイに行くんだよ、わたしと。お父さんもかならずそうなるから、大丈夫」
 とにかくこうなったら首根っこひっつかまえても入院させ、切除してもらうしかない。それには、とにかく早々に手術の予定を決めてしまうことだ。
 「先生、できるだけ早く手術しちゃってください。来週でも再来週でも」
 勢い込んで癌研の先生に頼み込むと、先生は困惑したような表情を浮かべた。
 「娘さんのほうが治療に積極的ですねえ。まったく緊急性はないんですがね」
 父はわたしの後ろでうなだれている。しかし、かまってられっか、切ってもらっちまえば、こっちのもんである。
 ちなみに、父がどの程度、癌ということに無知であったかというと、検査を終えて癌研を出たあと、まじめな顔でわたしにこう尋ねたのである。
 「おい、マキコ。癌っていうのは、伝染(うつ)るのか?」
 アホか。っていうか、伝染るとしたって、お父さん、お母さんと別居して、それも沖縄にいてどうやって伝染したっていうんじゃい。
 わたしは父を数日観察下において、なんとなくショックの嵐が過ぎ去ったころに沖縄に戻した。そして沖縄からもともとの地元に引っ越してくるよう説得して、入院までの10日間ほどを、引越しの作業で大忙しになるように手配した。車の運搬業者と引越し業者に父のもとへ見積もりを取りに行くよう指示し、父はその対応に追われた。おまかせパックではあったが大忙しで引越しを済ませ、入院のために羽田へと到着したときの父の第一声は、
 「いやー、忙しかった」
 であった。翌日には癌研に入院である。
 とにかく、父に自殺について考える暇を与えなかったのだ。よし、この勝負、勝った。あとは切ってもらうだけ。この先の流れはもう、母のときの経験でわかってる。オーケー、任せておきなさい。
 しかし、この先、すでに脳内に勝利宣言したわたしに、どえらい苦労が待ってるなんて、思ってもみなかった。それは「術後せん妄」である。
 次回、その詳細を述べるが、これが起こるのはなぜか女性でなく男性患者に多い傾向があるのだ。男って、じつはみんなとっても肝っ玉が小さいと思い知らされる事態が、わたしを待っていた。
 ほとほと、男はやっかいな生き物である。
 
 つづく
 
 
 
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