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| わかります和田先生、相続税100%を唱える気持ち その1 |  |  
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| 前回まで、癌研での体験をいろいろと書かせてもらったわけだが、そのなかで唯一、わたしが語れずにいた話がある。書かずに胸のうちにしまっておこう思っていたのだが、『日本の論点2006』で精神科医の和田秀樹氏が寄稿した「相続税100%こそ超高齢化社会を活性化する究極の税制である」という論説を読んだとき、 「ああ、わたしはわかる。この先生の気持ちが痛いほど、わかる」
 と思ってしまったので、もしもこれが親戚のだれかの目に触れて、物議を醸し出してもかまわないと腹を決めて、書くほうを選んだのである。
 母親の入院は2週間、父親の入院は3週間。なのになぜ、わたしが秋から冬、そして春までの長い時間を癌研で過ごしていたと書いたのか。それには語っていない理由があるのだ。
 それは本当の偶然であった。
 母が退院を目前に控えたある日、わたしは癌研のロビーで、ひとりの従兄弟に遭遇した。ちょうど前日に従兄弟連中――わたしは母方だけで38人の従兄弟を持つ身なので、ひとりひとりの顔と名前を認識してなかったりするんだけど――とにかくその大勢いる従兄弟のうちの一部が、どやどやと母の見舞いにやってきたところだった。また新たな見舞い人が、母のもとに。最初はそう思った。しかしそれは違った。母の兄貴のお嫁さん、わたしにとっては伯母に当たる人が癌研に送り込まれてきたところだったのだ。
 子供のころのわたしは、親戚の家をたらいまわしにされる日々を送っていた。こう書くとなんか悲惨っぽいけど、そうでもない。わたしが生まれて45日目くらいに父が起業してしまって両親とも商売が大変だったので、子供を預かってもらえる親類縁者のところに、わたしはぽいと預けられて――たしかに、まあ、嫌な目にあわなかったといえば嘘になるけど、子供時代はタフなところがあったみたいでけっこう平気だった。で、預けられた先のひとつに、この癌研に入院してきた伯母の家があった。
 この家での記憶に嫌な思い出はひとつもない。
 伯母は優しい、家庭的な女性だった。預けられたわたしを歓迎してくれる、数少ない親類のひとりだった。
 夏場は庭のプールで末娘のKちゃんと遊んだ。そう、この伯母の屋敷には庭にプールがあった。プールで体が冷えたら、芝生の上のリクライニングチェアで日光を浴びて体を温めて、Kちゃんと喋った。いまも目を閉じると、あの庭の芝生の青さとプールの水の色を思い出せる。伯母はそんなわたしたちを呼び寄せて、
 「そろそろ部屋のなかで休みなさい」
 と優しくいざなった。そしてわたしに礼をいった。
 「K子と遊んでくれて、本当にありがとうねえ」
 わたしは伯母がどうしていつもお礼をいうのかわからなかった。だから単純にこう答えた。
 「Kちゃんと遊ぶの、好き」
 伯母は少し憂いを含んだ笑みを浮かべてわたしに頼んだ。
 「そう。――いつまでもK子と仲良くしてやってね」
 これを言うのは辛いのだが、言わねばなるまい。子供のころのわたしにはわからなかった、けれど成長するにつれてはっきりと認識せずにはいられなかったこと――Kちゃんには知的障害があったのだ。プールも、体質が虚弱なKちゃんのために作られたものだった。わたしが高校のときに伯父は癌で亡くなることになるのだが、死の直前、苦しさのあまり人工呼吸器を外して死のうとする伯父に、
 「兄さん、兄さんが死んだら、Kちゃんはどうなるの?」
 と母たちが泣きながら訴えると、伯父はその手を止めたという。俺が一日でも長生きすることが、K子を生かすのだ――伯父は病床で自分をそう励ましていたと聞く。
 障害児を持った親の気持ちというのはいかばかりか。伯父の長男は、ベッド数がどれくらいだったかは忘れてしまったが、かなり大きな入院施設付きの病院を伯父に建ててもらっていた。次男はごく早い時期に、伯父が働いていた同族会社の重役になった。伯父は、末の娘のために、ありとあらゆる手を尽くして亡くなっていった。遺産だけでなく、いざというときのために兄ふたりが彼女を助けてくれるよう――伯父は万端を尽くして亡くなったといってもいいと思う。
 
 
 
 
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