2006.07.06
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
死んだ人の著作権を保護してどうする! その1
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 ポケモンの話でも著作権については語りたいことはあるけど、ま、それを言い始めると暗い話になるからやめといて、著作権の話に戻ろう。
「天然物」だったわたしが生まれて初めて「著作権」を意識したのは、虫プロの倒産だった。あれはわたしが小学校に上がるか上がらないかぐらいのときの出来事だった。その日のニュース番組を、幼いわたしは意味もわからず眺めていた。「虫プロ、倒産」。そのときに母がわたしにこう言ったのだ。
「アトムのお父さんの会社が潰れちゃったのよ」
 わたしは「鉄腕アトム」をリアルタイムに見ていた世代ではなく、もう少し後の世代なんだけど、とにかくこの母の言葉が、かなりわたしの胸にずしりと響いたのだ。
 虫プロ、倒産。
 わたしは実家が自営業なので、倒産という言葉にはかなり敏感であった。子供のころの夢のひとつに、
「不渡り喰らって実家が連鎖倒産して債権者から逃げている」
というのがある。なぜかたいてい河川が決壊して町は浸水していて、あたりは洪水になっている。被災している町を、父が漕ぐゴムボートに一家で乗って、逃げているのだ。急げ、債権者が追ってくるぞ! 悪夢である。
 手塚先生は、どうなっちゃうんだろう。
 子供心にとても心配した。
 鬼のような債権者の取立てに苦しめられていたらどうしよう。どうして手塚先生が、そんな辛い目に会うのだろう。だれよりも漫画を愛してるあの方が。
 わたしはそういう子供だったので、その後、人生最初の「萌え」の人である「ブラック・ジャック」に「少年チャンピオン」誌上で出会ったとき、きっぱりとこう思った。
「ブラック・ジャックの単行本だけは、お小遣いで買わなきゃならない。立ち読みで終わらせては駄目だ!」
 子供がそんなことまで考えるわけないだろ、と思う人は、子供をなめている。汚い大人の事情で頭が濁ってない分、もっと純粋に、クリエイターに対する敬意を抱くのだ。
「ブラック・ジャック」の単行本1冊の売り上げのうち、手塚先生のもとへ渡るお金がいかに微々たるものなのか、いまなら解るが、けれども、それが子供の小遣いから出ていたことを考えると、我ながらなかなか涙ぐましい。クリエイターという人種が、その才能に敬意を払う人の手によってしか創作を続けられないという事実を、幼いながらに理解していたのだ。
 わたしは過去に自分の蔵書を母親の手によって勝手に処分されるという悲運に泣いたことがあるので、現在、持っていたら大変貴重なものとなっているはずのこの「ブラック・ジャック」の単行本全巻(のちの文庫版や全集には収録されなかった「しずむ女」や「2人のジャン」も、掲載されてた)を失ってしまった。なので、大人になってからもう一度、
「ああ、ブラック・ジャックがもう一度読みたいよ」
と思って、がっつり大人買いして全巻を揃えたりしたんだけど、なんともいえない悲哀を感じざるを得ない。わたしがいくら「ブラック・ジャック」を買いなおしたって、天国の手塚先生のもとに印税は届かないのだ。印税という形の功徳を積めば先生が生き返るっていうなら、全国の手塚ファンに呼びかけて組織的に購入するぐらいの強い気持ちはあるけど。亡くなった人は、どうやったって生き返らない。本当に、むなしい。
 では当のクリエイターが亡くなったあとの著作権はどうあるべきか。というと、現行の「作者の死後50年」でも、正直、長いとわたしは感じる。たとえばあるクリエイターが若くして亡くなって、その遺児が成長するまでは自分の著作権料が支払われて欲しいと願ったとしても、30年もすれば子供はとっくに大人になってる。あとの20年になんの意味があるのか、わたしにはさっぱり理解できない。最近、「ブラック・ジャック」を勝手に編集(版元には申し訳ないが、そう感じざるを得ないですよ)して、コンビニ本としてバラ売りされているのを見ると、
「おい、誰が儲かってるんだ、この本の売り上げで」
と文句をつけたくなる。手塚先生がそれで喜ぶのか、どうなんだ。
 わたしは以前、視覚障害者のためのフロッピー雑誌に連載を持たせてもらっていたことがある。「アクセス・テクノロジー」という、視覚障害者がテキストデータを音読みできるようにするソフトを開発している会社だ。この会社の社長は視覚障害者である。そのつながりで、視覚障害の人たちにとってのテキストデータの意味を勉強することになった。
 視覚障害者というと、我々はすぐに「点字が読める人」を思い浮かべてしまうが、点字が読めるのは視覚障害者のなかでも決して多くないという事実がある。とくに、はじめは晴眼者(視覚障害者は、視覚に障害のない人を、しばしばこう表現する)であったのに、なんらかの事情で失明した人にとって、点字を読めるようになるのは、かなりの試練なのだそうだ(正直にいえば、ほぼ不可能に近いそうだ)。試しに、視覚障害者になったつもりで、駅の自動券売機などに貼られている点字に触れてみるといい。点字が読めるようになるのが、どれだけ難しいことか解るだろう。いくら感覚を研ぎ澄ませても、どこに点があって、どこに点がないのか、触っただけではイメージできない。
 だから、パソコンがテキストデータを読み上げてくれるという環境が生まれたとき、インターネットの世界に、晴眼者以上の熱心さで飛び込んできたのは視覚障害者だったのだ。点字の本というのは、そもそも、ボランティアの人が気長に作業して、いつできるとも知れない完成を待ち、点字の本専門の図書館から借りるという方法でしか、触れられなかった。しかも点字に翻訳されるのは、おもに文学作品である。じつは潜在的なニーズとして高いのはPCの技術系の本だったりするのだけど、こうしたものは、まず点字に翻訳されたりはしない。その点、テキストデータがあれば、点字が読める視覚障害者はもちろんのこと、点字が読めない視覚障害者まで、情報に接することができるのだ。
 わたしが視覚障害者をとりまくこうした事情を知るにつれ、じつに素晴らしい取り組みだと思ったことのひとつに、インターネットの電子図書館青空文庫がある。『日本の論点 2006』に富田倫生氏が寄稿した『時代に逆行する著作権法改正――過剰な保護は文化資産の共有をはばむ』の冒頭にも、この「青空文庫」が登場する。富田氏による、「青空文庫」の解説を引用しよう。

 青空文庫では、著作権の保護期間を終えた作家の作品が、二〇〇五年一〇月段階で、四九〇〇点以上公開されている。作品の入力、校正は、ボランティアで進めており、利用に対価は求めていない。アクセスは、国外からもある。晴眼者が画面で読むファイルを、視覚障碍者は音声に変換して聞いている。弱視者向けの拡大写本や、点字用データ(山崎注=テキストデータを点字用データに変換できるソフトがあるらしい)としても使われている。

 ここに収録されているのは主に古典的な文学作品で、視覚障害者の潜在的なニーズである技術書は含まれていないのだが、それでも、「青空文庫」が無かった時代と、在る時代を比べれば、状況は大きく変わったといえる。点字の読めない視覚障害者にも、文学の世界はわずかながら開かれたのだ。
 しかしその「青空文庫」に、いま危機が訪れているのだという。
 それは、著作権保護期間の延長だ。
 次回、なんでこんな愚かしい事態を招いたのかについても、語りたい。わたしは大いに、異論があるぞ!

つづく



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