大反響シリーズ 人事はこんなに難しい パナソニックの場合 第5回 悪夢はここから始まった
イエスマンだけの取締役会
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岩瀬達哉(ジャーナリスト)
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■粛清人事がはじまった |
■なぜMCAを売ったのか |
■誰も責任をとらない |
■経営よりも創業家のために |
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史上最高益から一転、恩情人事に起因する経営の失敗で、パナソニックは苦境へ追い込まれていく。それでもなお、創業家も社長も役員も「ウチの会社は大丈夫や」と信じ、現実を見ようとしなかった。 |
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粛清人事がはじまった
パナソニックの'90年代は、隆盛と粛清、そして失速の時代であった。
'80年代に手がけた「中期計画(ACTION−61)」の成功によって、家電メーカーから総合エレクトロニクスメーカーに変革をとげたパナソニックは、'91年3月期決算で過去最高の2589億円の連結純利益を計上。内部留保にしても、「すでにこの時点で1兆円以上を溜め込んでいた」(経理担当の元幹部社員)。
当時の4代目社長の谷井昭雄は、この好業績を追い風に、事業にあらたな付加価値をつけるべく、次世代を見据えた成長戦略に着手する。経営は、まさに隆々としていた。
ところが、その成長戦略が軌道に乗りかけた矢先、谷井の“恩情人事”に端を発した子会社ナショナルリース事件が発覚。不正融資による約200億円のコゲつきと同社社員の逮捕などによって谷井は失脚することになった。
一転、パナソニックは失速の時代に入っていくのである。まずは、谷井体制一掃のための粛清人事がはじまった。
谷井を支えてきた4副社長や側近の役員たちは、相前後して経営の中枢から外され、あるいは発言権を奪われていった。
当時の谷井の側近によれば、「その粛清人事は、正治会長の意趣返しだった。社長時代の谷井が、会長に引退勧告して以来、抑えがたい“感情の火種”が正治の胸中に燻くすぶり続けていて、谷井の失脚とともにいっきに燃えあがった」という。
当時、会長の正治は、取締役会の議長として絶対的な人事権を掌握していた。
創業者の幸之助が'89年に死去し、唯一、正治に正面切って意見を言えた相談役の山下俊彦(3代目社長)にしても、よほどのことがない限り、経営には口を挟まなくなっていたからだ。
後継社長として森下洋一を決めたのも、まさに“正治人事”だった。森下の新社長が発表されると、社内には少なからず驚きと戸惑いの声があがったという。
「森下さんというのは、イエスマンしか使ってこなかった。ヘイ、ヘイ言うやつが好きというのでは、トップとしての資質に欠ける。なのに社長になったということで、失望感が広がったのです」(元役員)
実際、社長就任後の森下は、イエスマンで周りを固めただけでなく、自身も正治の忠実なイエスマンとなり、その意を忖度そんたくする形で谷井が手掛けてきた事業の否定に入った。
パナソニックの役員と理事のOBで構成する「客員会」の重鎮のひとりは言う。
「森下さんが否定し、廃止した事業のなかでも、もっとも罪深いのは谷井さんが“社長プロジェクト”として手掛けてきた『ソフトとハードの融合事業』でしょう。これを潰してしまったおかげで、パナソニックは、時代に取り残されることになった」
この事業の核となるのが、財務担当副社長の平田雅彦と、法務担当専務の豊永惠哉のふたりが担当し、「全米をアッと驚かせた」MCAの買収劇である。
MCAは、スティーブン・スピルバーグを抱えるユニバーサル映画のほか、広域放送局や幅広いジャンルでヒット曲を飛ばし続けていたゲフィン・レコード、テーマパークのユニバーサルスタジオなどを傘下に持つ、“エスタブリッシュメント企業”である。
ワシントンポスト紙は、「買収額75億ドル(当時のレートで約9590億円)は、日本企業がアメリカ企業を買収した規模としては過去最大」('90年11月27日付)と報じた。また、そのショックの大きさを示すかのように断続的ながら、さまざまな特集記事を組み、年が明けた'91年になっても報じ続けた。
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