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Top > 特集記事 > 社会 > 2013.4.30
GW合併号スペシャル企画 感動告白特集 涙なしには読めません
有名人 あの人が死んで、初めてわかったこと
■河島英五 ■いかりや長介
■立川談志 ■夏目雅子
■新藤兼人 ■小野ヤスシ
■桑名正博 ■ジャイアント馬場
出会いと別れは表裏一体。離れたからこそ、見えるようになり、気付くことがある。まだ記憶に新しい有名人たちの死は、遺族に何を残したのか。8人の遺族が知られざる秘話を明かした。究極の別離がもたらしたものはそれぞれ深く、沁み入るものだった。
自分も親になってわかりました 名曲『時代おくれ』に込められたお父さんの真心
河島英五
河島あみる(長女・タレント)

 父が亡くなって12年。その間、私はタレントの仕事を本格的に始め、子供を3人授かりました。

 自分も親になり、だんだんと父の年齢に近づいてわかったのですが、父はずいぶん子煩悩で、家族を大切にしてくれる人でした。

 私が子供のころ、一家の住まいは大阪の大東市にあり、妹と弟もいましたが、父は年間300日以上もコンサートに出掛けていたため、家にはほとんどいませんでした。近所には、うちが母子家庭だと勘違いしている人もいたぐらい。だけど、私が小学校に上がり、地域の子供会に入ると、父は会が催す旅行会や運動会に進んで参加してくれました。

 子供を持つと痛感しますが、子供会の行事は、普段から近所の人と親しく付き合っていないと、参加しにくい。けれど、父は平気でした。なんとか子供たちとの時間をつくろうとしてくれたのでしょう。

 私が6歳のときは、一緒に牧場へ行き、泊まりがけでキャンプ。『酒と泪と男と女』がヒットしたあとでしたが、父は他の親や子供たちと積極的に言葉を交わし、いつの間にか輪の中心にいて、子供たちと川遊びをしていたのには驚きましたね。

 週末はほとんどコンサートに出掛けていたため、土曜日や日曜日の父親参観日には来られませんでしたが、その代わり、自分がオフのとき、たった一人で私の授業を見に来てくれたことがありました。

「父親参観日にいけなかったから……」

 人目など気にしていませんでした。今になって思うと、勇気のいることだったでしょう。

 5つ違いの弟・翔馬が生まれたときも、父は大喜びで、初節句には自分で鯉のぼりまでつくりました。母にミシンを踏ませて、白いシーツを鯉の形にして、そこに自分で絵を描いたんです。しかもコンサートが終わったあとの夜中に。夜が明けると、1m以上の鯉のぼりが3つも出来上がっていました。手作りだから、うまく風になびかなかったんですけど、父がどれほど私たちを愛してくれていたのかがわかります。父が亡くなった翌年の'02年、私に長男が生まれたのですが、初節句を迎えたときに、あの父の鯉のぼりの記憶がよみがえりましたね。

 家族だけでなく仲間も思いやる人でした。'97年、「憂歌団」のボーカル・木村充揮さんが、ライブハウスの経営から手を引くことになり、オーナーから相談されると、「じゃあ、俺がやるよ」と引き継ぎました。

 父のライブハウスの特徴は、歌いたい人が現れたら、誰でもステージに上げること。父は「道場破りを受け付けているんだよ」と喜んでいました。道場破りに来た一人が、デビュー前の押尾コータローさん(ギタリスト)です。父は若い人たちが歌うのを楽しみにしていました。

 そんな父の交友関係のすべてを知ったのは、亡くなったあとでした。コンサートで出掛けているとき以外は、必ず自宅にいる人でしたから、どんな方たちと親しいのか、家族はほとんど知らなかったんです。堀内孝雄さん、南こうせつさんたちとお付き合いがあるとは聞いていたのですが、私たちが思っていたより、父の交友範囲は広かった。

 たとえば、こんなことがありました。父が亡くなった年、吉幾三さんが突然、自宅に訪ねて来られたのです。吉さんは演歌の方で父とはジャンルが違いますし、交流があったなんて初耳だったのですが、父のこんなエピソードを披露してくれました。

「お父さんとは、お互いの子供の話ばかりしてたんだよ……」

 父はいつも「まわりの人がハッピーであってほしい」と考えていました。父が家族や仲間を大事にしたのには、育った環境が影響していると思います。父は5人姉弟の長男で、病気がちで体に障害を持つお姉さんがいました。おのずと自分のことより弟や妹たちのことを優先して考えるようになり、お姉さんを見て、弱い立場の人を思いやるようになったのでしょう。

 しかも、自分が高校時代に父親が経営していた会社が倒産してしまったため、両親からも頼りにされていたようです。

『酒と泪と男と女』などの曲で、男っぽいイメージを抱かれがちですが、もともと父は漫画家志望で、本当は繊細でやさしい人。体も強くはなく、小学生のときに小児ぜんそくで死にかけたほどでした。

 だからなのか、'86年に阿久悠さんが、『時代おくれ』の詞を書いてくださり、歌うように言ってくれたときには、

「この歌は、俺には格好よすぎる」

 と言って、照れていました。阿久さんにも「僕でいいんですか?」と聞いたそうです。父の気持ちは私にもわかりました。シャイな人でしたから。

 だけど、今の私の考えは違います。阿久さんは父の本質を見抜いてくれたのであり、この歌を歌えるのは父しかいなかったんだ、と。'09年、'11年と父のベスト盤が発売され、いまだに売れ続けていると聞くと、うれしいですね。だけど、やっぱり生きていてもらいたかったし、歌い続けてほしかった。こんな時代だからこそ、父の歌う『時代おくれ』が聞きたかった。











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