特別読み物 疎まれ、遠ざけられ、変人扱いされ、潰される
雅子妃の人生「勉強が出来すぎる女性の不幸」
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■あんなに輝いていた人が |
■敵と味方で人を区別する |
■キャリアアップ? |
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頭がいいことは、本来であれば誇るべきことだ。だがあまりに優秀すぎると、時に不都合なことが起こる。それは、一般社会でも、皇室においても同じこと。才媛・雅子妃が辿る道は、茨の道だった。 |
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あんなに輝いていた人が
「皇太子夫妻のご成婚記念日には、毎年商店街をあげてお祝いをしています。今年は20周年ということもあり、横断幕を作って掲げ、6月9日には駅前広場でイベントを開催しました。ただ、昔のような盛り上がりはまったくなくなりましたね。ご成婚当時は、見物客やマスコミが押し寄せ、商店街の景気もよかった。でも、今はさっぱりです。当時、小和田家が出前をとっていると評判になり大繁盛した寿司屋や鰻屋も、ほとんど店をたたんでしまいました」(雅子妃の実家に近い洗足商店街の商店主)
皇太子妃となった'93年、小和田雅子さんの人気は凄まじかった。実家の小和田家に通じる道路には「プリンセス通り」の異名がつき、一般人は通行止めで、許可証がないと、足を踏み入れられなかった。テレビ中継された6月9日の結婚の儀の最高視聴率は79.9%を記録。いかに国民の関心が高かったかを物語る数字だ。
「雅子妃は、美人で笑顔もチャーミング。ファッションセンスもよく、その上才媛でバリバリの現役外交官。非の打ちどころのない完璧な女性として、老若男女から圧倒的に支持されていました。そもそも雅子妃は、外務省入省時から非常に期待が高かった。その大物ぶりに、当時のメディアが『清原級ルーキー』とまで持ち上げたほどです(笑)」(宮内庁担当記者)
結婚するまでの雅子妃の経歴には、まさに他を圧倒する迫力がある。
雅子妃の父・小和田恆ひさし氏は、東京大学教養学部とケンブリッジ大学大学院を卒業し、事務次官にまで昇りつめた外務省のトップエリート。この間、在米大使館公使、在ソ連大使館公使、国連大使などを歴任し、現在は国際司法裁判所判事の要職にある。また、母親の優美子さんも慶応義塾大学を卒業後、エールフランス航空の東京支社長秘書を経て恆氏と結婚した“エリート専業主婦”だ。
この父母のもとで大切に育てられた雅子妃もまた優秀だった。父の仕事の影響で、幼少期をソビエト連邦、スイス連邦で暮らす。帰国後、優美子さんの出身校でもある名門・田園調布雙葉学園小学校に編入、高校まで同学園で過ごした。
「小和田家は一家揃って教育熱心です。特に優美子さんは、何としても雅子さまを、母校の雙葉学園に入学させたかった。そこで、幼い雅子さまを連れて雙葉幼稚園の、かつて美智子皇后の指導にあたった先生に会いに行き、『どうか娘の雅子を指導してください』と頼みこんだのです」(皇室ジャーナリスト・渡辺みどり氏)
その後、雙葉高校在籍中に、再び父の仕事の都合でアメリカのボストンへ移住し、ハーバード大学経済学部に進学した。
ハーバードでは学業に熱心に取り組み、在学中に執筆した論文で、「優等賞」を受賞。経済学部で受賞したのは、当時まだ3人目だったという。
こうして、幼少期から徹底した英才教育を受けた雅子妃は、持ち前の勤勉さを武器に、父と同じ外交官の道へ進む。そして、次代の皇室を担う皇太子妃として、白羽の矢を立てられたのだ。
当時、海外暮らしで培った広い見識と聡明さを持つ雅子さんが、皇室に新風を吹き込んでくれるかもしれないという期待も大きかった。ところが――。
成婚から20年の月日が経ち、雅子妃の評価は真逆のものに変わってしまった。その原因は、「完璧すぎる経歴」にあると、別の宮内庁担当記者は語る。
「雅子妃ご本人は、『皇室外交の担い手になる』という意気込みで結婚されたのだと思います。実際、それを期待させる言葉で、皇太子は雅子妃を口説き落としている。しかし、いざ結婚してみたら、求められるのは跡継ぎの出産のことばかり。皇室外交への期待の声などほとんどない。前に出て自分を主張したり、能力をアピールすることは、皇族らしくない振る舞いとして疎まれ、変人扱いされてしまうのですから、行き詰まって当然でしょう。
雅子妃が皇室祭祀に参加しないことへの苦情もよく聞きますが、皇室祭祀は自分の存在をアピールできる外交のような場とは対極的な滅私の場だから、雅子妃には参加する意味が見出せないのではと思います」
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