竹村健一の歩んだ道 ●我がマスコミ人生 ●竹村健一著作録 |
■誕生から現在までの主な出来事をまとめてあります。 あなたの思い出の年と比較してみてください。実感が湧くと思います。 |
1930年(昭和5年) ●4月7日 大阪市浪速区にて、長男として生まれる。父・竹村貞次、母・ふくの(当時学校 の看護婦)。非常な難産で身体が弱かったた め「健康が一番」との願いから「健こと命名。やがて、父がメガネのフレーム製造工場を、安い労働力が豊富だった大阪市生野区猪飼野町に設立。一家で移住する。 1936年(昭和11年) 6歳 ●4月 北鶴橋小学校に入学。 1942年(昭和17年) 12歳 ●4月 大阪市立生野中学校に入学。 小・中学校時代は成績もよく、級長もガキ大将もという具合。ぼんぼん育ちだった。 1943年(昭和18年) 13歳 ●4月 戦争のため疎開。兵庫県立生野中学校に転校。都会育ちのため、体力が地元の子供に劣り、“ぐうたら”と呼ばれる。 1948年(昭和23年) 18歳 ●4月 旧制姫路高等学校、文科甲類入学。 当時は戦争直後で、教育制度、学生の気分が荒れており、姫高の三学期の授業は「学生運動激化のため無かった」記憶がある。 1949年(昭和24年) 19歳 ●4〜9月 アメリカ進駐軍で通訳のアルバイト。 ●9月 新制京都大学文学部第一回生として入学。 新制度のためか、9月から大学が始まった。授業は現京都大学構内ではなく、宇治分校(旧軍隊宿舎)で行われた。 ●9月 兵庫県朝来町山口中学校に、アルバイト英語教師として就任。大学は入学式も含め、授業はほとんど欠席。 1950年(昭和25年)20歳 ●4月 山口中学校をやめ、京都に近い宝塚第一中学校へ転任。アルバイト英語教師を続ける。 1951年(昭和26年) 21歳 ●9月 宝塚第一中学校をやめ、大学三回生として専門課程に専念する気で二学期は真面目に授業に出席。 ●11月 社交ダンス見習い教師募集に応じ、レッスン場に毎日通い、教師免状を取得。結果的に、まともに登校したのは10月1ヵ月のみ。 1952年(昭和27年) 22歳 ●1月 英文毎日編集部でアルバイト開始。翌年3月まで毎日新聞大阪本社に毎日出社。大学の授業には出席せず。 1953年(昭和28年)23歳 ●3月 京都大学文学部英文科卒業。 ●4月 毎日新聞に正式入社。 ●7月 毎日新開をいったん退職し、フルブライト留学生としてエール大学へ留学。アメリカ文化を研究。 ●10月 シラキュース大学大学院新聞学科に移る。奨学金は1日わずか5ドルで、耐乏生活を送った。 1954年(昭和29年) 24歳 ●6月 シラキュース大学大学院修了。 ●7〜8月 YMCAキャンプで写真カウンセラーとして勤務。小遣いを稼ぐ。 ●9月末 船で大西洋横断。 ●10月 パリ、ソルポンヌ大学外国人フランス語コースに籍を置く。昼は大学、夜はコメディ・フランセーズやオペラ座に通い、深夜2時までカフェで過ごす。 ●12月 ドイツ、ベルギー、スイス、イタリア、インド、ホンコンを経て31日の大晦日に帰国。 1955年(昭和30年) 25歳 ●1月1日 英文毎日編集部に復帰。放送・芸能方面担当。 ●2月 大学1年のときにアルバイトした朝来中学校で初講演。雑誌『商店界』に寄稿、初めて原稿料をもらう。小学生・中学生毎日新聞、『サンデー毎日』などに執筆。 ●10月 初の著書『千五百円世界一周記』を関書院より出版。 1956年(昭和31年) 26歳 ●10月 大本良子と結婚。 1957年(昭和32年) 27歳 ●毎日放送「世界金作り名人伝」放送開始。 ラジオの台本を手掛け始める。 自ら欧米通を任じ、来日外国人の取材に精力的に活動する。 1958年(昭和33年) 28歳 ●7月 『バレエ鑑賞の手引き』を関書院より出版。 カバー装丁は妻・良子。 ●9月 毎日放送にラジオ台本「世にも珍しいオハナシ」を連続して書く。 1959年(昭和34年) 29歳 ●2月3日 長男・眞一誕生。 テレビ初出演(毎日TV)。 1960年(昭和35年) 30歳 ●毎日放送のラジオ台本「世界のぞき眼鏡」執筆。 1961年(昭和36年) 31歳 ●ヨットで東京〜大阪間を航海する。 ●この頃より、放送批評を各種雑誌「テレビドラマ」「TBS調査情報」「放送朝日」他に掲載英語関係雑誌(「時事英語研究」「商業英語」他)にも執筆。 1962年(昭和37年) 32歳 ●毎日放送のラジオ台本「恐妻言行録」執筆。 ●4月 読売テレビ放送「レディの英語」月〜金曜に出演開始。水曜日のアシスタントにイーデス・ハンソン(テレビ初登場)。 ●当時、テレビ週5本、ラジオ週3本、月刊誌連載7本、週刊誌1本、新聞連載1本。 ●8月 『おとなの英語』を光文社より出版、ベストセラーとなる。 ●11月27日 次男・英二誕生。『おとなの“英”語』にちなんで命名。 ●天理大学で時間講師として新聞学を教え始める。 ●12月 インターナショナル・プランニング・サービス株式会社を創立(現在の竹村グループ総本社コスモポリタン)。 1963年(昭和38年) 33歳 ●2月 『英語会話一週間』を講談社より出版。ベストセラーとなり、全国に“一週間ブーム”が巻き起こる。『週刊読書人』で「オリンピック英語を一手に引き受けている竹村健一と評される。 ●3月 英文毎日退社。 ●4月 山陽特殊製鋼に調査部長として入社。これを機に経営学に手を染める。 ●11月21日 長女・眞紀誕生。 1964年(昭和39年) 34歳 ●4月 山陽特殊製鋼退社。 ●10月10日 東京オリンピックの開会日に、妻・良子と共に、結婚してあしかけ10年の記念としてアメリカへ。 1965年(昭和40年) 35歳 ●4月 追手門学院大学助教授に就任。アメリカ史を教える。 旅行記を多数執筆し、トラベル・ライターとして世界中を飛び回り始める。 1967年(昭和42年) 37歳 ●4月 『5人の猛烈なアメリカ人』講談社より出版。“モーレツブーム”を全国に巻き起こす。 ●9月 アメリカ文部省の依頼で、ミネアポリス市教育委員会に「日本問題コンサルタント」として勤務。 1968年(昭和43年) 38歳 ●6月 アメリカより帰国。 前年より『マクルーハンの世界』『マクルーハン理論の展開と応用』『マクルーハンとの対話』を講談社より立て続けに刊行。全国に“マクルーハン・ブーム”を起こすと共に、文明評論家としても多数執筆。 1970年(昭和45年) 40歳 ●前年に東京に転居。そのため、隔週土曜日、追手門学院大学の講義のため、東京〜大阪間を往復。 月刊・週刊誌合わせて15本、ラジオ番組3本出演。 多忙の合間に海外に頻繁に足をのばす。「モーレツからビューティフルへ」「ソフト・ランディング」「二重思考」など、次々に流行語を生み出す。 1971年(昭和46年) 41歳 ●3月 追手門学院大学退職。フリーとなる。 1973年(昭和48年) 43歳 ●『週刊大衆』(マリリン・モンロー その神話と真実)の取材のため、アメリカ・マサチューセッツにノーマン・メイラーを訪ねる。この1年間に、海外旅行8回を数える。 1974年(昭和49年) 44歳 ●10月 TBSラジオ 「ミッドナイト・プレス・クラブ」放送開始。外国特派員とさまざまな問題について論じ、ヤングの支持を得る。 経営者セミナー、中小企業社長との対談などで、経営評論家としても活躍。 1977年(昭和52年) 47歳 ●4月 日本テレビ 「世相講談」放送開始。茶の間の主婦に世相をわかりやすく説明し、大反響を巻き起こす。 “ヤオヨロジスト”“電波怪獣”“アメーバ人間”などの異名をとる。 1979年(昭和54年) 49歳 ●5月 未来経営研究会発足 ●ラジオ月50本、テレビ月25本程度出演。年間講演数200回を越える。“80年代は「分裂思考」で”を提唱。 1980年(昭和55年) 50歳 ●4月7日 50歳の誕生日に 「著書200冊出版 記念パーティー」を帝国ホテルで政財界人、マスコミ関係者、作家など大物を集めて行う。 ●明光商会、MSシュレッダーのCM放映。「僕 なんか、これだけ」が大当たり。 ●8月 月刊『世相講談』を創刊。 ●12月31日 大晦日のNHK 「紅白歌合戦」の裏番組として、フジテレビの特別番組「悪魔の選択」に出演。このため、アフガン国境を訪れたり、ニューヨークでキッシンジャー、ロンドンでフォーサイスに会う。 1981年(昭和56年) 51歳 ●3月 フジテレビの3時問ドラマ「その時歴史は変った」の原案作成。 CMの「デリーシヤス」が流行語となる。 ●11月 「ぼくなんかこれだけですよ・竹村健一の手帖」SMS・レコードより発売。 1982年(昭和57年) 52歳 ●2月 「バレンタイン・ジャズ・フェスティバル」に黒一点出演。女性プロ歌手に囲まれて、ピアノを演奏する。 1983年(昭和58年) 53歳 ●4月 アメリカのベストセラー『メガトレンド』をいちはやく翻訳出版。精力的に紹介し、日本にメガトレンド・ブームを巻き起こす。“ハイ・タッチ”が流行語になる。 1984年(昭和59年) 54歳 ●ついに著書が300冊を越える。 1985年(昭和60年) 55歳 ●10月 フジテレビ 「世相を斬る」放送300回記念パーティが開かれる。 1986年(昭和61年) 56歳 ●10月 福岡で地方第1号の「竹村会」が発足。 ●10月 テレビ朝日で「竹村健一の食卓外交」放送開始。 1989年(平成元年) 59歳 ●9月 フジテレビ 「世相を斬る」放送500回を迎える。 1990年(平成2年) 60歳 ●2月 第5回フジサンケイ正論大賞受賞。 ●9月 「竹村健一丸秘情報ダイレクトメッセージ」を開始。 1992年(平成4年) 62歳 ●1月 『週刊ポスト』の「世界の読み方」連載500回を突破。 ●4月 フジテレビ「報道2001」放送開始。 1993年(平成5年)63歳 ●l月 第l回全国竹村会新春セミナー開催(地方竹村会13か所)。 ●3月 著書の数が400冊を越える。 ●4月 TBSラジオ「竹村健一のパイプ片手に」放送開始。 1994年(平成6年)64歳 ●l月 第2回全国竹村会新春セミナー開催(地方竹村会14か所)。 ●3月 オリコ竹村健一FUN CLUBゴールドカード発足。 ●6月 衛星通信「竹村健一の地球世相SOS」放送開始。 ●10月 ニッポン放送「竹村健一のズバリジャーナル」放送4000回を迎える。 1995年(平成7年)65歳 ●l月 第3回全国竹村会新春セミナー開催(地方竹村会16か所)。 ●6月 竹村健一の長年のマスコミ生活を祝すパーティー開催。 1996年(平成8年)66歳 ●l月 第4回全国竹村会新春セミナー開催 ●7月 インターネットサイト「ワールドワイド竹村」開設。 1997年(平成9年)67歳 ●l月 第5回全国竹村会新春セミナー開催 ●6月 99年ぶりに中国に返還される香港の様子をフジテレビの報道2001で現地から伝 える。 1998年(平成柑年)68歳 ●l月 第6回全国竹村会新春セミナー開催 ●9月 第6回「ストップ・ザ・エイズ―私たちにできること」(チャリティー・コンサート) に参加。ピアノ演奏後にタンゴを踊る。 ●地方竹村会が20か所を越える。 ●この年の暮に著書が500冊を突破。 1999年(平成11年) 69歳 ●1月 第7回全国竹村会新春セミナー開催 ●5月 ホワイトハウスで開催されたクリントン大統領主催の公式晩餐会に招かれる。 ●9月 第7回「ストップ・ザ・エイズ」に参加。ピアノ演奏後にワルツを踊る。 ●11月 メールマガジン「これだけメール」の配信開始。 2000年(平成12年) 70歳 ●1月 第8回全国竹村会新春セミナー開催。 ●1月 有料メールマガジン「ニュースの深層」配信開始。 2001年(平成13年) 71歳 ●1月 初めての海外クルーズで21世紀を迎える。 ●1月 第9回全国竹村会新春セミナー開催。 ●8月 第1回「クローズアップセミナー」開催。 2002年(平成14年) 72歳 ●1月 第10回全国竹村会新春セミナー開催。 ●4月 文化放送「世相ホットライン ハイ!竹村健一です」が放送開始20周年を迎える。 ●4月 『週刊ポスト』連載の「世界の読み方」が連載1000回を迎える。 ●5月 マスコミ生活五〇周年記念パーティを開催。 2003年(平成15年) 73歳 ●1月 第11回全国竹村会新春セミナー開催。 ●12月 週刊ビデオ配信「地球世相SOS」が500回を突破。 2004年(平成16年) 74歳 ●1月 第12回全国竹村会新春セミナー開催。 ●5月 文化放送「世相ホットライン ハイ!竹村健一です」が放送2000回を迎える。 |
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