サッカーの日本代表について語るとき、いまひとつ分かりにくいのが、その良し悪しの基準だ。何をもって良しとするか。勝てば歓び、負ければ悲しむスポーツ観戦におけるオーソドックスな感情表現と、代表戦との相性は必ずしも良好ではない。勝利を心の底から喜ぶべき試合はごくわずか。四年に一度のW杯ぐらいに限られる。平素は勝っても喜べない試合が大半を占める。 親善試合が圧倒的多数を占めること。その大半が、相手にハンディが加わるホーム戦であること等々が大きな理由だが、真剣勝負であるはずのアジア予選にしても、試合のレベルそのものは高くない。潜在的に日本と拮抗した戦力を備える国は、せいぜい四、五チームしかない。図抜けた戦力を持つ国もない。 今回のアジア枠は四・五。五位になっても、勝利が濃厚な、オセアニアの代表とのプレイオフが待ち構える。設定は緩い。番狂わせを喫しない限り、岡田ジャパンは本大会出場を果たせそうな状況だ。蛇足になるが、予選の放映権を持つ某テレビ局が好んで用いる「絶対に負けられない戦い」は、アジアでは強者に属する日本の立場を端的に言い表した、言い得て妙というか、巧みな宣伝コピーというべきだろう。 前回のジーコジャパンは、その絶対に負けられない戦いを乗り切り、ドイツW杯本大会出場を決めた。問題はそこでも同様の戦いを演じてしまったことにある。アジアでは強者の日本も、W杯本大会の舞台に立てば弱者。チャレンジャー以外の何ものでもない。予選と立場は一八〇度変わる。事実、英国のブックメイカーは当時、日本をF組の中でブラジル、クロアチア、豪州に次ぐ四番手と見なしていた。三位豪州に大差を付けられた泡沫候補との自覚があれば、話は変わっていたかも知れない。協会、監督、選手、メディア、ファンの多くが、相変わらず強者を気取っていたところに問題があった。少なくとも豪州には勝てるだろうと、日本人ファンの多くは慢心していた。 1−3で敗れた豪州戦を含む、三試合の結果は一分二敗の成績。この当たり前のことが当たり前に起きただけの結果に対し、日本は酷く落胆した。必要以上にショックを味わうことになった。その結果、観客数、視聴率は低下の一途を辿ることになった。新監督イビチャ・オシムのカリスマ性をもってしても、効果はあがらず、さらに、監督の座がオシムから岡田サンに引き継がれると、事態はいっそう悪化した。日本代表はいま稀に見る不人気に喘いでいる。 これまで見えなかったものが、見えてしまったためだろう。気付かなかったことに、気付いてしまった結果だろう。
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