2006.02.16
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
早期英語教育賛成の悲哀 その2
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 ……その根幹には、英語が使えるようになりたいと強く願い、あれほどまでに長い時間と多くのエネルギーを注ぎ込んだにもかかわらず、結局英語をものにすることは叶わなかった(「負け組」)という怨みつらみ(かつて渡部昇一はそれを「ルサンチマン」と呼んだ)がある。その鬱積した感情は反転して、英語や英語の使い手(「勝ち組」)に対するあこがれを生む。《わが子にだけは決して同じ思いをさせたくない。英語を身につけさせ、勝ち組の一員となるべく社会に送り込ませてやりたい。それには早くから英語を学ばせるのがよいはずだ(以下略)

ということで、つまりルサンチマンの問題だということになっちゃうんだけど、私はそれのどこが悪いのか、という気がするわけである。我が子を、勝ち組にしてやりたいと思わない親がいるというのか? してやれるもんなら、してやりたいよ、勝ち組に! まだ子供いないけど、我が姪のことですら、そう思うよ。ホニャホニャと泣くばかりだった新生児のころから、里帰り出産した姉といっしょに面倒みてたんだ! それはまあどうでもいいんだけど、保護者のひとりとして姪っ子を勝ち組に入れてやりたいと思ってなにがおかしいんだよ、コンチクショー、文句あっかーっ。
 と、思ったりするわけだが、早期英語教育に反対している方々のご意見というのは、じつに論理的、かつ、納得のいくものだったりする。編集部から送られてきたFAXを読んでて、唸っちゃった。『日本の論点2004』で、「英語教育の重視が日本人の教養をさらに低下させるのはまず間違いない」という論説を寄せている藤原正彦氏という数学者の先生がですね、少し前の『日本の論点97』の「学校週五日制成功のカギは国語と数学重視のカリキュラム再編にあり」という論説のほうで、英語教育の是非にちょっと触れているんです。この論説を読むと、保護者の血がたぎるわたしも、
「もしかすると、ちょっと冷静になったほうがよいのかな?」
と思わせられたのだ。
 まず、子供の教育をするにあたっては、教育方針の骨子となる考え方を持っていなければならないと思うんだけど、藤原氏の論旨はじつに明快なのだ。ちょっと抜粋してみよう。

 ……初等中等教育のカリキュラムを決定する三原則は、(1)学校で教えるのが適当か、(2)国民の大多数にとって必要か、(3)子供の発達に即しているか、であると思われる。小学校で自転車の乗り方を教えないのは(1)を満たさないからであり、バイオリン演奏を教えないのは(2)を、哲学を教えないのは(3)を満たさないからである。
 三原則をどれほどよく満たすかで教科間の優先順が決まるが、特に心すべきは、(3)の適齢という視点である。各学会の主張に欠落しがちなのはこの視点だろう。この立場から考えると、小学校での最優先が国語と算数であることは論を待たない。昔から読み書きそろばんと言われたが、そろばんを算数と解すれば、まさに古人の言う通りである。……

 ここまで読んだだけでは、氏は数学者だから算数が重要だという話をしたいだけなのかいな、とひねくれた読み方をすればそうも読めてしまうのだが(あ、こんな読み方をするのはわたしだけか? まあいいや)、そうじゃない。氏は、ここから先、算数のことなど、かなりどっかに放り出して(ほとんど算数には触れていないといっていい。国語教育の重要性を懇々と説きだすんである。その片鱗をまたちょこっと抜粋。

 ……とりわけ初等教育における国語の重要性はずば抜けている。三原則に最もよく適応するというだけではない。国語は、言語教育という要素にとどまらず、すべての思考および情緒の教育の基礎となるからである。
 人間は思考した結果を言語で表現するばかりでなく、言語を用いて思考する。私の専門とする、言語には程遠いと思われがちな数学でも、思考はイメージと言語の振り子運動と言ってよい。思考と言語は分かちがたいのである。……

 数学で微分積分を学ぶときどうであったか、物理で作用反作用の法則を学ぶときどうであったか、化学で化学変化を学ぶときどうであったか。氏の論説を読んでいて振り返ると、たしかにそこには、言語を用いた思考があったことが、思い出されてきたのである。

 この話、もう1回だけ、続きます。


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