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こないだ論点の編集部で、わたしが九龍城に潜入したときの話をした。
まだ学生のころで、香港はイギリスの植民地だった。中国への返還をまえにして、香港は行政による急速な改革を行なっていて、九龍城の解体も間近という、そんな時期だった。
若いお人はご存知あるめえと思うのでちょいと説明しておくと、九龍城というのは香港の巨大なスラム街で、違法建築に違法建築を重ねたため内部は迷路状になっていて見取り図はないに等しく、香港で若い娘さんがさらわれると大抵は九龍城内部に連れ込まれて、警察も滅多に踏み込めないので二度と出て来れない犯罪の温床――というのが、よく語られていた九龍城のあらましだ。
わたしが九龍城に潜入したのは、九龍城のヤバさもかなり薄まって、呑気な日本人観光客のツアーがバスで九龍城にやってきて外観を見たりする程度になっていた頃だった。で、わたしはツアーではなく個人旅行で香港に向かったので、ついでに内部に潜入してみることにした。イラクでは危機感のない若者の旅行者が殺されてしまったが、まあ、若い時分のわたしというのも、そんなものであった。
さて九龍城内部、光のほとんど届かない路地を歩いていると、ぽっこりと窓が開いている建物があった。興味津々でなかを覗くと、裸電球の下で、なにかの臓物をタライに入れて洗っている人たちが見えた。
なるほど九龍城で暮らす人は麻薬の密売だけでなく、こういうことも生業にしてるのかと感心しながらあちこちの建物の内部を覗きながら先を行った。危機感がないのもいいことに、いい気分で歌まで口ずさんだ。
「幸せをもたらすといわれてる、どこかでひっそり咲いている、 花を探してー、花を探していますー」
九龍城のなかでは余所者の侵入を防ぐためと警察が踏み込んだときのために密に連絡を取り合う手段があると聞いているが、服装、そして鼻歌が決定打となったのだろう。わたしが馬鹿を下げて歩き続けていると、突然、50メートルほどむこうの薄暗闇のなかから一人の香港人が現れ、中国語でなにか怒鳴りながらこちらにむかって爆走してきたのだ。
彼はわたしに、激しく怒りを覚えているようであった。どうもこりゃまずいことになったらしいぞとようやく悟った。ひっそり咲いている花を探している場合ではない、こちらがひっそりと死亡してしまうかもしれない。これ、マジやばい。わたしは罵声を背中に浴びながら、九龍城の外側にむかって必死に逃げた。人生でいちばん本気で走った瞬間だったと思う。
このときの恐怖と同じものに、オンラインゲームでの経験がある。
ウルティマ・オンラインという、オンラインゲームの草分けとなったRPGがある。いまは日本にもサーバーがあるし、ゲームも日本向けに作りかえられている。ユーザー同士の日本語でのチャットも可能になり、だいぶ平和なゲームになったそうだが、わたしがウルティマに関わったのはアメリカからウルティマ・オンラインのパッケージが輸入されてきてすぐの、本当に初期の段階だった。アメリカの、たしか西海岸のほうのサーバーにつないでオンライン・ゲームに参加した。当然、日本人なんてほとんどみかけなかったし、日本語入力も不可能だった。わたしはただひとり、アメリカのサーバーのなかに展開される世界を放浪していた。
で、あるときひとりで森のなかで豚と戦っていたら(キャラを育ててないので、モンスターと戦えるレベルではなかった)、甲冑や剣の装備からしていかにも強そうな連中に囲まれた。彼らはまずわたしを指差し英語で笑った。
「おい、アイツ見ろよ、豚に殺されそうになってるぜ、へへへ」
「へへへ、笑える。おいそこのおまえ、手助け欲しいか?」
わたしは文法やスペルすら定かでない英語で答えた。
「あいどんと、うおんと。りーぶみー、あろーん」
するとふいに尋ねられた。
「あん? おめー、どこの国のもんだ」
忙しいので一言答えた。
「ジャパン」
するとその中の一人が突然声を上げたのである。
「おい、ジャップだ、殺せ!」
ウルティマ・オンラインはプレイヤーがプレイヤーを殺すことができる。
わたしは屈強なアメリカ人の集団から追われた。
「ジャップ、ジャップ!」
「キル、キル!」
そう叫びながら追いかけてくる。ゲームでも死の恐怖というのは感じられるものだ。わたしは街にむかって必死に逃げた。しかし途中で囲まれて、なぶり殺しにされた挙句、首をちょんぱされ、遺体から内臓を引きずり出された。
アメリカが憎い。心の底から憎い。
もういっぺんやったろみゃあか、世界大戦。
内臓がはみでた我が遺体を眺めながらそう思い、瞬時に反省した。人の命は地球より重いのである。憲法第九条は守らねばならない。
九龍城で感じた恐怖というのは、ウルティマ・オンラインのときと同じように、日本という国に憎しみを抱いた異邦人になぶり殺しにされるかもしれないという恐怖だった。
人種の違いというのは、ときとして死を意味する。
九龍城とウルティマ・オンラインで起きたふたつの出来事は、わたしにそれを実地で教えてくれたのだ。
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