2005.03.17
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
ゆとり教育で馬鹿ばっか!
全2ページ
 心がとってもイガイガする今日この頃、本日のお題は「ゆとり教育」でございます。
 ボスと話していたら次々思い出して腹が立ってしょうがないんだが、わたしの小・中学時代というのは受難の日々であった。いまでも思い出すのが、ある夏の日、理科の授業を受けていたら、若い女教師がわたしのほうにツカツカと歩み寄ってきて、マジでいきなりこう言ったんである。
「わたしが福島大学の教育学部出だからって馬鹿にしてるんでしょう!」
 この言葉、一字一句、変えてはいない。授業を受けていたわたしはいきなりの挑戦状に唖然とし、教師の顔をただみつめるだけだった。
 なんなのだ、この女は。
 受難が最大級になったのは、忘れもしない、中学2年のときだ。県内統一模試が新聞社主催で行なわれた後だった。わたしの小学校時代からの親友であるまっちゃんと、わたしのふたりが新聞に名前を連ねたのである。学校始まって以来の快挙ということで、大騒ぎになったらしいとは後から聞いた。まっちゃんが20位以内で賞状を貰い、わたしは50位以内だったので、壇上のまっちゃんに惜しみない拍手を送った。そのときはまさかそんなに自分が受難の日々を送ることになるとは想像もしていなかった。
 教師というのは本当にずる賢く、セコいことにしか頭の働かない連中だと、ひとつの信念を持って思う。
 苛められたのは、学内で1位だったまっちゃんではなく、2位のわたしのほうだった。まっちゃんが高校教師の娘だったこと、そしてまっちゃんがそうした隙を与えない女だったことも受難を逃れた理由であろうが(のちに聞いたことだが、まっちゃんにもそれなりに受難はあったらしい。わたしほどではなかったが)、最大の理由は、本当に抜きん出た者には怖くて彼らは物がいえないのであるとわたしは考える。わたしのような半端なところをつかまえては、ねちっこく、陰湿に、苛めるのである。
 わたしは音痴である。
 それは生来のものだからしょうがない。
 しかし音楽教師はわたしをつかまえ、
「頭ばっかりよくったって、生きていくうえではなんにもならないんだ」
とあざ笑った。また、担当の教師は、こいつの顔は忘れもしないが、
「山崎は数学ができて国語ができないから情緒欠陥児なんだ」
と決め付けた。情緒欠陥児。この言葉はいまもわたしの耳にしっかりと残っている。あー、その通り、情緒欠陥児だよ。だから血も涙もなく君たちを憎もう。
 さて、わたしがこんなに腹を立てている理由はもちろん「ゆとり教育」のせいである。
「ゆとり教育を実施しようといったヤツはどこの馬鹿だ?」
と思ったら、案の定の答えがボスから返ってきたので、わたしの心はとってもイガイガしているのだ。  だれでも知っていることだと思うが、ゆとり教育で、いま日本は、馬鹿ばっかになっているらしい。  具体的な数字なんかを、ちょっとボスから教えてもらおう。
「OECD、つまり経済協力開発機構が、15歳を対象とした国際学習到達度調査というのを3年に1回やっている。2003年は日本を含む41カ国、27万6000人が対象だった。前回やったのが2000年で、日本はこの3年の間に読解力が8位から14位に下がっている。また、数学的応用力が1位だったのが、6位に落ちた。なぜこんなになったのか。
 かつて学校で詰め込み教育が行なわれていたとき、受験戦争と知識偏重が落ちこぼれをつくるといわれた。そこでこんなことを言い出したヤツがいた。『心の教育が足りなかった。ゆとりのある充実した教育をしようじゃないか』と」
 む、臭う、臭うぞ。あの臭いがする。やつらの臭いがぷんぷんしてくる。
 ここですでに「犯人はあいつらでしょう!」と叫びたい気分でいっぱいなのだが、まずは冷静になろう。
 そうですね、バブルのころにですね、ゆとりゆとりって年中新聞に書いてあった気がしますよ。で、それが実施されてこんなに馬鹿ばっかになったと?
「いやいや、ゆとり教育の歴史はもっと古い。なんとゆとり教育が開始されたのは1977年からなのだ。1977年に、文部省が、学習指導要領を改訂した。そのあとに、子供たちの自主性や生きる力を伸ばすということで、授業時間を減らす。それから学校教員の裁量権を拡大した。それを1977年以降続けていたのだ」
 なに、そんなに古くから? 
 ヤバい。77年といったら、小学校4年のときだよ。
「ゆっふぉー」
とか言って、教壇のうえでみんなでピンク・レディーの曲を踊っていたときだよ、たしか!
 わたしも「ゆとり」が生み出した、馬鹿のひとりだったのかっ。
 うわ、最悪だよ、「ゆとり教育」を受けちゃったよ。だからなおさらに馬鹿だったのか。で、いまはこんな馬鹿が大量生産されていると? 怖いっ。
 青ざめながら先を聞く。
「次に、1989年の改訂で重視されたのが、個性の尊重というヤツな。それと心の教育。小学1、2年生に生活科が導入されたり、高校社会科に代わって地歴と公民になった。さらに98年の改訂。今度は生きる力を育成すると称して、総合的な学習の時間というのを入れた。それから学校週5日制の導入。教育内容の3割削減。というわけで、30年ちかくゆとり教育は続いてきた。ところが、問題はこれがアメリカの真似だったということだ。1970年代から80年代初めのアメリカでは、これが主流だったのだ、子供の自主性を重んじる教育というのがな。で、むこうの教育はどうなのかと見てきた連中が、自主性を尊重する教育を日本でもやろうと、1977年に始めた。それに同調したのが日教組だ。日教組は、賃金の向上と時間短縮を運動方針で決定していた。勤務時間を短くすることによって、子供の教育にもゆとりを実現するんだと、とんでもないこと言ってたんだよ。文部省と日教組、双方の都合が合致したわけだ」
 ここで再び血圧が急上昇する。
 やっぱり! ゆとり教育の黒幕は日教組だったのか!
 信長に焼き討ちにされてしまえ! あいつら現代の比叡山だ。



次のページへ
全2ページ
バックナンバー一覧へ
山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
閉じる
Copyright Bungeishunju Ltd.