2005.09.15
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
報道されない癌治療 その1
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「将来癌になったときは、立派に戦ってみせるぞ!」
 本日わたしは癌研有明病院のまえで、肺癌の確率を高めるという煙草をプカプカふかしながら、かためたこぶしに力を込めていた。
 で、帰ってきたらボスが、
「今週はいっちょう、癌についてやろうかあ」
と言い出したので、それに乗ることにした。
 わたしの考えというか、うっすらとした予定ではもっと後になってから語ろうと思っていたことだったんだけど(プライバシーに関わることも含まれるので)、でもまあ、これもまたひとつの機会ということで、いいんじゃないかと思ったんである。
 わたしはいま、午後の2時になると癌研有明病院、これは大塚にあった癌研が今年の3月にお台場の近所の有明地区に移ってきたのだけど、そこに行って、夜の8時まで過ごして帰宅するという生活を送っている。
 母の大腸に癌があるとはっきりわかったのは八月のお盆があけたときだった。母は本当は4月から体の不調を薄々感じていたそうなのだが、「癌だとわかるのが怖くて」、検査をずっと避けていたという。
 で、わかったときには、それなりの大きさに癌は育っていた。
 わたしは失恋して泣いたという経験がないまま、そういうことに無縁な年齢になってしまった。だから友人が、
「吐くほど泣いた」
などと言っているのを聞いて、奇妙な動物でも見るような気持ちで眺めていた。別にもてまくったから失恋しなかったとかそういう訳じゃなくて、それだけの執着を知らずにいたというだけのことだ。そりゃあ、振られたら嫌な気分にはなったけど、
「ま、縁がなかったっちゅーことで」
と、わりとあっさり割り切ってきたわけである。あるいは自分の感情が淡白なのかな、とも思っていた。
 ところが、母の検査結果を聞いたとき、生まれて初めて泣いた。七転八倒して、挙句の果て吐くというのを経験することになった。
 このときのわたしのイメージというのは「癌=不治の病」であった。
 「ブラックジャックによろしく」という医療漫画がある。かなり賛否両論がある作品だけれど、わたしはいちおう、批判する声にも耳を傾けつつも読んでいた。で、わたしの癌治療のイメージというのは、いまにして思うと、かなりこの漫画に影響されていたように思う。
 抗がん剤に苦しんで、髪も抜け、病み衰えて死にいく人々。
 それが癌患者に私が抱いていた、いま思えば“作られた”イメージだった。
 もっとも、これをまったく否定するわけではない。不幸にしてこういう道をたどる患者の方々がいるというのは、嘘ではないのだろう。
 しかしわたしが「あれ?」と思ったのは、母の病気について調べて、5年後の生存率を見たときであった。




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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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