2005.09.15
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
報道されない癌治療 その1
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 癌の進行度は、ステージといわれる病期で分類されていて、0期、T期、と進行度が上がっていって、最後がW期となる。母の場合は最悪の状態を想定すると「ステージVa」であったのだが、なんとこの段階になっても、五年後の生存率が70%ほどだと、国立がんセンターのWebサイトに書いてあったのである。
 70%。
 この数字を高いと見るか低いと見るかは、個々人の価値観しだいで大きく分かれるところだろうが、わたしは、
「高い」
と見た。この数字が、「癌=不治の病」という印象に、最初の亀裂を入れた。吐くほど泣いてはいけないかもしれない、と思った。背筋が伸びたというか、後ろ向きだった気持ちに、闘志が芽生えてきたのだ。もちろん実際に治療を受けるのは母であってわたしではないわけだが、サポートする周囲の側の人間として、力強く、完治を目指して励ましていくことを、心に誓った。
 一方、家のなかでは大騒動が起きていた。
 父が、
「母といっしょに練炭を炊いて死ぬ」
というのである。泣きながら父は電話口で訴えた。
「お母さんを沖縄に寄越してくれ。そしたら俺はいっしょに死んでやろうと思うから。楽に逝かせてやるから。なあ、マキコ、頼むからそうさせてくれ」
 100-70=30。
 そう思うと、奈落の底に落ちていくような恐怖を感じた。けれどきっぱりとわたしはこれを拒絶した。
「いいや。高い確率で完治が望めますから。手術させます」
 わたしの祖母という人は、奇しくも、いまの母と同じ年のときに、大塚の癌研で亡くなっている。
 そのときの治療というのは、壮絶で、周囲の人間は言葉を失うようなものであったらしい。放射線治療と抗がん剤で髪は抜け、吐き、部屋には悪臭が漂っていたと聞く。その介護をしたのがわたしの母であり、そして父であった。
 祖母の死に際がいかに壮絶であったかは、その後の叔父たちの死がそれを証明するかのようである。
 叔父たちのうち4人がすでに癌で他界しているのだが(しかも祖母が他界したのとほぼ同じ年齢のときに)、全員、どこかがおかしいと思っても、まったく食べ物が受け付けられないとかそういう状態になるまで検査を受けずに通して、大抵、発見されたときは末期の癌に冒されているという状態であった。
 わたしの従兄弟には、
「世界で最小の癌を発見した」
という医師がいて(いまはもう記録は更新されているだろう)、この従兄弟が、
「僕の身内から癌で死ぬ人をなくしたい」
と情熱をこめて建てた病院が近くにあるというのに、叔父たちはまるで、この病院に近づくと癌が伝染するとばかりに、従兄弟の病院を避けて別の病院に通っていた。わざわざ、たいした設備もない町の病院を選んで、胃薬を貰ったりして、「治りにくい(そりゃそうだ、癌だから)」などとこぼしていた。そして最後は、従兄弟の病院で亡くなっていった。
 従兄弟の理想は「癌の早期発見」であったにもかかわらず、親族に対しては結果的にいつも「癌のターミナルケア」の役割しか果たせずにきたのである。従兄弟はいつも地団駄踏んで悔しがった。
「どうして叔父さんも伯母さんたちも、いざという時に限って、僕の病院を避けるんだ! みんな、早かったら助けられたのに」
 しかしわたしはそういう従兄弟の歯軋りを耳にしながらも、同時に焼き場で大人たちが、
「お兄さんはいい亡くなり方をしたわよ。医者に体をいじくりまわされて挙句の果て死んだんじゃないんだから」
と、互いを慰めあうのを耳にして、いつしか、
「ガンと戦わずに死ぬのは幸福な道である」
と洗脳されていったのだった。

つづく


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