2005.11.03
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第 回
ごみ34分別の町とコンポスト その2
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 さて先週の続き。ベランダでスカートをたくしあげるかどうするか迷っていた二十代のわたしにまでさかのぼる。
 ゆりかもめが目の前を通り過ぎる。
 よし。これで数分は稼ぎ出せる。
 ときは来た。いま出撃のとき。
 いけ、山崎。地球の環境を守るために。我は環境保護戦士、エコロG!(c)ほりのぶゆき。
 と、自分を駆り立てるんだが、ぷるぷる震えて、どうしてもスカートをまくりあげてパンツが下ろせない。どうした、エコロG、勇気をもって、いまこそ都会のベランダで環境のために戦うのだ。
 脂汗がにじみ出た。
「うっ。……で、できない。できないんだ、わたしには! どうしても、身を捨ててまで、地球に優しくできないー」
 このときわたしは思い知ったのだ。個人の努力でコンポストを作ってゴミ問題に取り組もうにも、限界があることを。必要なのは、行政の力。行政の助けなくては、真の解決はありえないのだと。
 ちなみにこのとき作り始めたナンチャッテ堆肥は、近所の公園に夜陰にまぎれて埋めた。多少なりとも発酵していたとは思うんだが、土壌にとっては負担だった気がする。不法投棄? うーん、否定できないね。
 こういう挫折の季節を味わったあと、わたしはひょんなことから、栃木県芳賀郡の、茂木(もてぎ)町役場による「美土里(みどり)堆肥」製造の取り組みを知ることになる。農学部時代の知り合いで、農水省関係の仕事をしているヤツがいて、
「茂木はすごいよ。ゴミ問題に取り組むというと、マイナスの性質のものをせいぜいゼロにするよう努力するという印象しかないけど、それをプラスの方向まで発展させてる」
と教えてくれて、その取り組みの概要を聞き、
「なるほど、その手があったか!」
と、うなった。簡単にいえば、茂木町は、生ゴミと蓄糞の処理の問題に取り組んだ結果、行政の力で堆肥を作る茂木町有機物リサイクルセンター美土里館を造り、結果として、「もてぎの棚田米」というブランド米まで作り上げてしまったんである。
 そもそも、なぜ茂木町がリサイクルセンターを立ち上げたかといえば、畜産糞尿の適正化に関する法律というのができた平成11年までさかのぼる。どういう法律かというと、地下水の汚染防止のために、家畜糞尿の野積みをやめようというものだった。
 このとき茂木町には13軒の農家があって、600頭の牛がいた。野積みをやめれば農家が困る。そこで堆肥センターを作ろうという計画ができたわけだが(最終的には6億3000万円かかったらしい)、たった13軒のために税金を多大に投資するというのでは、住民の合意もとりつけられない。予算だって、潤沢とはいえない小さな町。どうしたらいいんだろう。茂木町は考えた。
 そこへもってきてこのご時世である。町には以前から生ゴミの処理という課題があった。生ゴミがあると燃焼温度が下がってしまって、ダイオキシンの発生率も高くなる。そこで、分別すれば生ゴミは有効に活用できるよねってことで、生ゴミを可燃ゴミとして取り扱うのをやめた(対象エリアは、町の中心部のみだが、これで必要十分。首都圏に住んでいるとあんまりピンとこないかもしれないが、地方だと、家の庭に大穴を掘って生ゴミを堆肥にするというシステムがいまなお健在だ。悪臭で近所から苦情をいわれることもないしね)。



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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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