2006.01.19
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
●特別編●
特別編 お詫び、そして微笑みの国で考えた
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 先々週、知人からメールを貰った。簡潔にいえば、
「わたしがmixiに書いたネタを無断で引用しないように」
というものだった。山崎、やっちまいました。いろいろ謝罪の言葉を考えていたんですが、言い訳めくので、シンプルにいきます。該当の箇所は削除させていただきました。どうも申し話ございません。この場を借りて謝罪いたします。
 ちなみに該当の箇所というのは、格差社会について語った回のなかにあったんですが、彼女からのメールを一部転載すると、こう書いており、今回そのため、いろいろと考えました。

「W大人のお話、私、よく自分の日記に書いておりますが、彼の言う『社交』についてちょっと補足をさせてくださいませ。
 古代中国から連綿と続く歴史の中での政情不安や圧政などから、法や倫理よりも血脈と人脈とを第一義とするようになった中国人の事情や哀しさというのもあります。それが、政治も仕事も人脈づくりも、全てを円卓で行うという習慣にも結びついたわけですね。上流階級云々もあるのですが、社交は彼らにとって、生き長らえる術でもあるわけです(中略)。W大人の言う社交や上流と、昨今ベストセラーにもなっております、いわゆる日本においての下流とはニュアンスが違うのです。中国人は、いわゆる低所得層でも社交や人脈は大切にするんですよ。原稿を書く前に御相談頂ければ、そういった補足もできたのですが」

 わたしは中国に行ったことがない。なので中国人というものはイメージでしか考察できないので、実際に交流のある人たちに、
「中国人ってこうですよ」
といわれたら、
「ああそうなのか」
と納得するしかない。だから彼女の言葉をそのまま素直に、
「解りました」
というしかない。たしかに「わたしがどうやら誤解していた部分があるようです」としか言いようがないんだが、彼女からメールを貰って、ますます中国人が不可解だというか、なんでなんだろうと思う部分が出てきた。これは、この一件のあと、わたしがタイに行ったこととも深く関係しているのだけど、湧いてきた疑問というのは、
「なぜ、中国人はそんなにエラい目にあってるのに、宗教に傾倒しなかったんだろう?」
ということである。
 まず、歴史的にエラい目にあった民族というのは、地球上には数多く存在する。エラい目にあった民族の代表をわたしの少ない知識のなかからあげるとすれば、ユダヤ人という民族がそうだ。わたしはユダヤ人の選民意識というのが長く理解できかねていたんだけど、たしかNHKの「宗教の時間」という番組で、上智大学の先生が、
「ユダヤ民族というのは受難の民族で、モーゼに連れられてエジプトから逃げ出すまでは民族全員が奴隷だったわけです。この困難を耐えるために、彼らは、『最も神に愛されるものが、もっとも試練を与えられる』という考え方をして、それを乗り切ってきた」
というような感じのことを言っていた。ここでわたしはハタを膝を打った。
「そうか! どえらく酷い目にあったらそういう考え方をして、それを糧としていくのも致し方ないよな」
と、彼らの選民意識なるものを、納得したのである。
 で、今回、20年ぶりぐらいにタイに行って、しみじみ感じたのは、
「タイ人って本当に仏様が好きだなー」
ということだった。ちょうどわたしの泊まるホテルがダウンタウンにあったこともあって、わたしは母親を連れて、早朝、バラックのような建物が立ち並ぶ町並みを歩いていた。日本人の感覚からするとスラムに近い感じなので、母などは、
「人さらいがやってきたらどうしよう!」
と怯えていた。三十路も後半に入った女とバーサンを連れ去ってどうすんだ、なんの商品価値もないよ、ぐらいに思っていたから平気だったが、まあ、普通の日本人からするとそれぐらい貧しい雰囲気の場所である。
 するとそこに托鉢の僧がやってきた。タイではお坊さんは、オレンジ色の僧衣を身にまとい、裸足で歩いてる。すると近所の奥さんたちがこぞって屋台で買い求めた食べ物をビニールに包んでお盆に載せ、お坊さんに寄進しはじめた。わたしと母親がそれをじーっと見てたら、なんか世話好きそうな奥さんがやってきて、身振り手振りで、
「あなたたちもお坊さんに食べ物を差し上げなさい」
みたいなことを指示するので、言われるがままに屋台で食べ物を買って、それを借りたお盆の上に載せてお坊さんに寄進した。このとき、靴を脱いで裸足になるように身振り手振りで教えるので、その通りにした。そしたらお坊さんがなんか祈ってくれた。するとわたしたちの周りを取り囲んでいる全員が、わたしたちに、
「あー、よかった。あなたたちこれでひとつ善行をつんだね!」
みたいな感じで喜んでくれてた。わたしたちがお坊さんに寄進したからって奥さんたちには別になんの関係もないわけだが、わたしたちが功徳をしたことを純粋に喜んでくれて、ニコニコしてる。母などは、
「あの人たち、お坊さんに寄進するのはいいけど、自分たちの食べ物はあるのかしら?」
と心配しているような感じであったが、その場はじつに和やかな雰囲気。わたしたち、あの日本人に良いことさせてあげた、めでたし、めでたし。わたしたちがおぼえたてのタイ語で、
「コープクンカー(ありがとう)」
というと、みんなが、
「コープクンカー」
といって見送ってくれた。おかげでわたしたちは極楽浄土にひとつ近づけたに違いない。




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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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