2006.01.12
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
●特別編●
特別編 お詫び、そして微笑みの国で考えた
全2ページ
 かつてネパールに行ったときにしみじみ感じたことなんだけど、貧困が犯罪を誘発する場所というのは世界にはたしかに存在するけど、そうでない土地柄というのもある。キーワードは信仰心だ。信仰の篤い民族というのは、貧困のなかにあっても、どっか呑気だ。貧富の差をあまり苦にしない。そりゃどこに行っても、はしっこいのはいるから、単純なスリ、かっぱらいの類はご愛嬌でいるにしても、背筋が寒くなるような恐ろしい犯罪というのは犯さない。あなたは裕福そうだから、ちょいとだけ懐からわたしたちに富を還元してもらいますよ、という程度の出来事しか起きない。
 今回も、「信仰のある土地は歩いていて楽しいな」と、じつに快適なタイ旅行を満喫して戻ってきたわけだが、さてここで考えてしまうのが、前述の彼女からのメールである。中国人も歴史的にエラい目にあってきた人々なんだが、あんまりタイ人のように「仏教好きー」な感じがしない。わたしの数少ない中国人による文学の知識を動員すれば、あの国で人気がある古典的な物語に、
「三国志」
と、
「西遊記」
がある。前者は戦争がメインのお話であり、宗教について語っているわけじゃない。で、後者はご存知のように、三蔵法師が、猿、ブタ、河童の妖怪を連れて西方にありがたーいお経を取りに行くという話なわけだが、よく考えてみるとこれも妙な話である。まず、三蔵法師がお経を唱えると、ゴクウの頭の輪っかが締まる。これが妙である。お経は魔法か? サンゾーマージック、サンゾーマージックと、歌いたくなるほど妙である。
 で、次に変だなと思うのが、この物語、
「ありがたーいお経をゲットするぜえ!」
ということに執念を燃やしていて、お経をゲットしたら終わりみたいな感じがしないでもないことである。ドストエフスキーなんか読むと、信仰ということについて徹底的に考えましょうね、みたいな重苦しい雰囲気がつねにつきまとっているんだけど、西遊記を読む限りにおいては「いかにありがたーいお経をゲットするか」が重要であり、そのありがたーいはずのお経に、なにが書いてあって三蔵びっくり、超開眼しました、とかいうことはあんま大事じゃないみたいだ。まあタイの庶民にとっては、寄進すること自体に意味があるのかもしれないけど。
 私見だが、これは日本人にも通じるところがあるように思える。遣唐使だの遣隋使だの、あれこれ派遣して海に沈没したりして大変な目にあいつつ、仏教を日本に伝えたのはいいけれど、なんかお経はムシキングのカードですか? という程度の、レアなアイテムでしかなく、そこに何が書かれていて、どうすればわたしたちの心が救われるのか、については、さほど熱心でない、ような気がする。すごい経典持って帰りました、立派な寺院を建立しました。これで仏教伝来です、任務コンプリート。で、そのありがたいお経にはなにが書いてあったんですか? それで庶民のあいだに仏教の精神は広まりましたか? というと、
「そのへんはあんま重要じゃないんでえ」
と、スルーされているような気がしてならない。
 だからこそ、今度は黒船がやってきて、「西洋文明」という新アイテムが登場したとたんに、
「今度は“西洋文明”ゲットだぜえー」
という切り替えが簡単にできたような気がするんだが、どうだろう。ついでに言えば日本人の好きな哲学者というと、なぜかニーチェっていう人が多くて、
「神は死んだ」
って言葉は、ニーチェに関心のないわたしのような人間でも知ってるわけだけど、それ以前の問題として、
「そもそも日本人のなかに“神が生きてた”時期があんのか?」
と、わたしなどは考えてしまうわけだ。
 で、中国人だが、彼らにしても、あんまりタイ人のように、
「宗教スキー」
な感じがしない。仏教は信仰の対象ではなく、むしろ新しい学問のひとつであった。だから儒学が生まれたときにそっちに移ることができた、と説明すると、腑に落ちるような気がする。
 どえらい目にあった。だから血族の絆を大切にしよう。
 どえらい目にあった。だから信仰をもつことで民族のアイデンティティーを保とう。
 この両者の道を分けるキーワードがなんなのか。世界をあまり知らないわたしなどには首をひねっているしかない話なんだが、中国人は不思議だなと、今回メールを貰って率直に考えた次第である。
 それでは来週から、また通常の「時事音痴」に戻ります。
 このたびは本当に申し訳ございませんでした。深くお詫び申し上げます。


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