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わたしは父の枕元でマシンを取り出し、キーボードを叩いて仕事をおっぱじめた。ちょっとは仕事ができたらいいなと、スケジュールの都合上思っていたので、隙あらば仕事をしようとノートパソコンを持ち歩いていたのである。わたしは父の枕元でおおいにキーボードを叩いた。そして編集者と連絡を取り合い、父の手術予定日の3日後に取材を入れた。そのころにはICUからも出ているだろうし、十分、容態その他も落ち着いているはずである。オーケー、なんの問題もない。おまけに想像以上に仕事もできそうだ。仕事も看病も、どっちも両立ですよ。さあ頑張るぞ。この時点でわたしは書籍の出版予定が2冊あったんだが、どちらの刊行予定も守れそうだと、自信満々で編集者に確約した。
手術の前夜になり、執刀医から手術についての説明があった。
医師はホワイトボードに人体の絵を描いて、どこをどう切るかをわたしと父に語って聞かせた。
肝癌の手術というのは、一回、肝臓を全部、腹から出すんですね、で、その場で超音波をかけて、CTで見つからなかった癌とかがないかを精査するんですよ、で、他にもみつかったらついでに取ります。だから、癌の大きさにかかわらず、ちょっと傷口は大きくなるんです、おなかを横に40センチぐらいになりますかね、肝臓を一回、外に取り出す都合上ですね。
そんな感じの説明を興味深く聞いた。父はわたしの横で無言だ。そのほか、母のとき同様に、硬膜外麻酔の説明、そして術後に場合によっては起きてしまう合併症の話。ここまでは母のときとほぼ一緒で、全部、「想定内ですね」って感じである。
ところがここに来て、執刀医から、意外な説明を受けることになる。
「主な術後の合併症はこういったものですが、ほかに、この患者さんの場合ですと――術後せん妄。これが、あるかもしれません」
せん妄。どこかで聞いた憶えがある。なんだっけ。思い出せないので執刀医に尋ねる。
「それはどういった症状でしょうか、先生」
「幻覚、多弁、興奮、妄想――つまりですねえ、術後に、“あっちの世界”にいっちゃう人がたまにいるってことです。自分がどこにいて何をしてるかが、わからなくなって、重要な管を抜いたりだとか。でもそのうち、まあ、かならず“こっちの世界”に戻ってはくるんですけどね。なんとなくなんだけど、今回、これが起きそうな気が、僕はするんですよねえ」
そうだ、どこかで聞いたことがあると思った、せん妄。アルコール依存症の患者が虫とか見ちゃうヤツをせん妄っていうんじゃなかったっけ。そうだ、たしかそう。
「どうして父にせん妄が起きそうな感じがするんでしょうか」
「うーん。……勘です」
ちょっとムカっときた。
あなたのお父さんは、頭がおかしくなる素養があります。
そういわれたような気がしたのだ。
執刀医は続ける。
「場合によっては手足を拘束しないと、ならなくなるかもしれませんが」
わたしは腹を立てながら同意した。
「そうですか、そうなったら手でも足でも縛ってくれて結構です」
そばにいた看護士の女性は、まるでボケ老人をあやすような声色で父に語りかけ、
「術後に驚いちゃうといけませんからね。手術のまえに一度、ICUを見学に行きましょうよ、ね、山崎さん」
と、しつこい。手術の前にICUの見学。こんなことは、母のときは全然いわれなかったことである。これも、“術後せん妄”とやらを起こす可能性をかんがみて、勧められているに違いない。
父は小さな声で、わたしに尋ねた。
「ICUっていうのは、なんだい、マキコ」
「えーと、なんていうかなあ、一般病棟と違って、医療器具がいっぱいある部屋でね、若干、物々しい感じがする。ちょっと怖い雰囲気かも、しれない」
「怖いのか?」
「うーん、まあ、重篤な患者さんが収容されるとこだから、一般病棟よりはね」
すると父は小声で看護士に、
「行きません。どうせ、手術をしたら、その部屋に入るのでしょう? だったらいいです」
と返事した。看護士はそれでもしつこく、
「いや、一度見ておいたほうがいいと思うんですよ」
父は肩を落として首を横にふるばかりであった。
父はこのとき、「ICU」という言葉だけでもう十分に怯えていたのだった。
つづく
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