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翌日、姉と母はわたしに父を託して、地元へと帰っていった。ICUの面会時間は午後の2時からである。わたしは、久しぶりにゆったりと寝て、昼ぐらいに起きてネットで遊びながら目覚めのコーヒーを飲んでいた。違いがわかる女の、ゴールドブレンド。ここのところ、父に自殺する、自殺する、と脅されて緊張していたわたしが嘘のようだ。勝利を確信しているわたしは、じつにゆとりある気分であった。
そのときだった。突如、癌研からわたしの携帯に、連絡が入ったのである。
わたしは動転した。なぜ、こんなタイミングで、癌研から連絡が? あわてて携帯を耳にあてる。
「もしもし、こちら、癌研有明病院です」
「お世話になっております、父に、なにか?」
いい想像が働かない。さっきの落ち着きは一瞬でぶっ飛んで、わたしはたぶん、青ざめていたと思う。
「お父様がベッドから飛び出して、病院から出て行くと、大騒ぎしていらっしゃいます! ご家族の方、癌研のほうにいらしてくださいますか?」
「癌研から、出ていく?」
なにが起こったのか。事態がさっぱり理解できなかった。なにか、癌研に対して腹を立てるようなことがあったのか? それにしても、術後の翌日に病院を出るなんて、無茶だ。
なにを考えてるんだ。死ぬぞ。
「わかりました、すぐに支度してそちらにむかいます」
化粧も滅茶苦茶に、わたしはタクシーに飛び乗って癌研へと向かった。
「父はどこですか?」
「あちらです」
ICUに飛び込んだわたしを待っていたのは、
「マキコー、背中に、バナナの皮が張り付いているんだ! 痒い、痒いんだ、取ってくれえ」
そう叫びながら、背中の硬膜外麻酔を外そうと引っ張っている父の、完全に“あちらの世界”に行ってしまっている姿だった。
術後せん妄。
執刀医は勘のいい人だった。ホントのホントに、危惧されていた事態が、起こってしまったのだ。
「駄目、お父さん、そのワイヤーを引っ張っちゃ駄目!」
背中に刺さった硬膜外麻酔を外そうと格闘している父の手を力いっぱい押さえ込んだ。
「腹にも、万年筆が刺さってるんだよ!」
父は押さえ込んでいるわたしの手を振り払おうともがく。
「それは万年筆じゃない、腹腔に入ってるチューブ。大事なチューブ」
「死んじまう、取ってくれ、これ、取ってくれ」
「逆! 逆だよ、取ったら死ぬ!」
「おまえの言ってることはさっぱり解らない。ほれ、ここに万年筆が刺さってるじゃないか、見えないのか。取ってくれえ」
「だーかーらー、それは腹腔に入ってるチューブで、お父さんの生命維持のために、大切なチューブで」
「万年筆が、腹に刺さってるよー」
どうなる父、どうするわたし。それなりに大手術をした翌日なのに。手術は成功したのに、父は“あちらの世界”のに行っちゃって、生命維持装置を引っこ抜こうとベッドの上で大暴れしている。
「ちんちんにもなんか刺さってる!」
「それは、カテーテル。お父さん、わかんないの?」
「死ぬ、死んじまうよ、助けてくれえ」
そういえば父は、少年時代に大阪で爆撃を受けた経験がある。もしかしてそのときの記憶がよみがえってきているのか、そうなのか?
「鶴橋には爆撃でぶっ飛んだ人間の腸が、電線にひっかかってぶら下がっていた」
と言っていた。その記憶に逆戻りしてるのか、そうなのか?
戦争反対!
チューブを抜こうとする父と、それを取り押さえようとするわたしは、格闘を続けながら、なぜかふと心のなかでそう叫んだ午後だった。もう完全にギャグの世界だが、笑っている場合じゃない。
世にも恐ろしい“術後せん妄”の世界が、まだ始まったばかりだとは、わたしはこの時点では知る由もない。
つづく
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