月はいつも、地球に同じ面を向けて来た。
そういう仕組みになっている。
多くの人々が、月の裏側について様々な想像をめぐらせたけど、いい意味でそれは裏切られた。
まさか人が住める世界があったなんてね。
ここは、裏側の月世界。
「……で、ちょっと隙を見せたら、シルバーが入り込んじゃったわけ?」
エリーヌ=ヒースロウ教授は、不機嫌そうに朝食のクロワッサンを口に運ぶ。
犬毛にまみれ、髪はぼさぼさだが、その点を気にする様子はない。
気にして下さい、教授。
横ではシルバーが、ようやくありつけた朝食を、一心不乱に食べている。
よかったな、シルバー。
「ちょっと、聞いてるの、カーナ?」
「あ、はいはい、聞いてますよ、教授……で、何でしたっけ?」
「シルバーのっ……」
「いや、そうでしたね。はい、えっと、その通りです……不注意でした、すいません」
僕はちょっと、しどろもどろになりながら、結果についてだけ謝罪した。
教授はウサン臭げに、こちらを見ている。
「ま、今回はそういうことにしとくけど……二度とこの手は使わないでよね、ホントに」
「以後、気をつけます……」
実際のところ、シルバーが僕を出し抜くことは、良くあるんだけどね。
ちょっと、嘘のつきかたが下手だったかもしれない。
それで、お小言を終わらせると、教授はクロワッサンのしっぽを口に放り込み、僕はカップに注がれたミルクティーを飲み干した。
……さて、後かたづけでも始めますか。
ごくごく平穏に、月世界の朝は過ぎていく
その日の午後、教授のもとに来客があった。
訪問者である老紳士は、ジャックモール市の市長、マーデン=フライヤーと名乗る。
フライヤー氏は気難しそうな人で、僕が接客の準備をしている間も、そわそわと落ち着きがない。
アポイントメントも無しにやってきて、もし断られたらどうするつもりだったんだろう?
そもそも、市長の仕事は大丈夫なのかな。
僕は台所兼、食堂に使っている部屋を、手早く臨時の応接室としてセッティングする。
教授もそれなりに身だしなみを整え、フライヤー氏を迎えた。
ちなみに教授は普段、男物のスーツを着ている。
いわゆる、男装の麗人という奴だ。
男装の麗人にも、色々と個体差があるみたいだよ
「お会いできて光栄です、ヒースロウ教授」
「わたくしもですわ、フライヤー市長」
市長と教授は、にこやかに握手を交わした。
教授は「懐古未来学」というのが専門で、それなりに有名人らしい
誰もが知っているというほどではないけど、知る人ぞ知るという奴だ。
ただ僕には「懐古未来学」が、いったい何を研究する学問なのか、良くわからない。
何度か教授に説明してもらったんだけど、いくら聞いても理解できなかった。
多分、子供には理解できない、立派な学問なんだろう。
誰かの名誉のために、僕はそう考えるようにしていた。
「どうぞ、お掛けになって下さい、市長……で、本日はどういったご用件かしら?」
「ハァ、それがですね、その……」
わざわざやって来たというのに、フライヤー氏はなかなか用件を切り出そうとしない。
しばらくしてから、教授が僕のほうをちらりと見た。
……あ、なるほどね。
「教授、ちょっとシルバーの様子を見てきます」
そういって、僕は部屋を出た。
大人の話は、大人同士でして下さいよ、市長殿。
扉を閉めると、待ってましたとばかりに、シルバーがじゃれついて来る。
迷惑にならないよう、僕はシルバーを連れて街に出た。
時計の時間は昼すぎだけど、太陽は明け方と同じく、地面すれすれに浮かんでいる。
地球と同じ街並みとはいえ、ここは月世界。
太陽の動きを基準にすると、1日は月の満ち欠けの周期なわけで、約30日間もある。
一週間前、僕たちがここに到着した時が正午で、今日になってやっと夕方になった。
実際は、月世界でもグリニッジ標準時による24時間制が用いられているから、地球にいるときと生活リズムを変える必要はない。
寝ても起きても、明るさがあんまり変わらないのは、妙な感じだけどね。
それで体調を崩す人もいるみたいだけど、教授やシルバーは図太いし、そんな人たちと暮らす僕も、それなりに図太い。
僕は、シルバーを連れて中央駅まで行き、これから向かう予定の辺境都市、メルヴィルまでの列車の予約状況を確認したり、列車旅行に必要な用品を何点か購入した。
それと、自動車整備工場にも寄って、教授の車を列車に積んでもらう手配も進める。
この段取りは、まったくもって僕自身の判断だ。
教授と具体的な打ち合わせをしようと思ってたら、市長殿がやってきてしまったからねぇ。
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