4.
二人。
汚れた背広を着た不精髭の男と、汚れたシャツを着た少年。
二人に挟まれるように、子桜は立ち尽くしていた。薄く眼を開いてはいるが、何も見てはいない。しかし、彼女は明確に眼の前の状況を把握していた。
始めは二人を通して、向こう側の風景が透けて見えていたが、次第に現実という質感が備わってゆく。
子桜の特殊能力――特定の脳波、拍動を維持し続けたときに、無機物から使用者の意志、思考を抽出し、具現化することができる。具現化できるものは、使用者の過去のみに限定される。
永続しないものの、具現化された思考は質量すら所有し、意志の疎通も可能だ。彼女はこの能力をただ、査定ツール、と呼び、錬司は幽霊を本物にする、と形容した。
男は笑いながら少年を見下ろしていた。
かちかち、という歯が鳴る音――少年は完全に怯えていた。左腕を曲げ、その前腕に拳銃を――ベレッタを押しつけ、男に狙いを固定していた。少年の身体には細かい傷がいくつもある。
できません。口は動くが、言葉にならない。
「貴彦。撃て」
荒い三國の呼吸。幼い彼の思考にも、男の頭を打ち抜くしか選択肢がないことは理解できていた。自分を育ててくれた男を撃てなければ、終わりだ。
「お前とある程度の関係を築いた存在を殺す――これが最後の訓練だ。あとは、好きにすればいい」淡々と男は言う。「私は自分の娯楽……、私の技術を吸収させるためのスポンジのような存在が欲しかった。そのためだけに、お前を買い、育てた。しかしお前の能力を活かすことのできる環境など、何処にもない。代わりに戸籍と金を用意した。俺が死んだ後に、お前に転がり込む手はずになっている」一歩、前に進み出た。「撃つんだ。それで、私の娯楽は完了する」
金と戸籍――三國はその単語に反応した。戸籍登録をする前の赤ん坊を売買する仕事がある。自分がそれ。百万円が自分と釣り合う。
ひたすらにベレッタの扱いだけを覚え続けてきた時間。逃げることもできなければ、死ぬこともできなかった時間。
嬉しさはターゲットの中央をぶち抜いたときだけ。
それだけ。
「命令だ……、撃て!」
頭が空白になる。条件反射で指が動いてしまう。何度もの銃声。腕に伝わる馴染みの反動。マズル・フラッシュ。
風圧で、子桜の髪が横に流れた。
同じ体勢のまま、三國は顔を動かさずに下を見ると、男があお向けに倒れていた。上を見上げたまま動かない表情。口の形は、明らかに笑っていた。
やってしまった――僕は自由だ。
二つの考えが正面から衝突した。狂いそうになる。
眼をそらすな、お前がやったことだ――早く戸籍を手に入れる算段をするんだ。
子桜の右半身は返り血で真っ赤になっていた。それでも彼女は微動だにしない。身体を動かすということは、脳波や心拍の自律性が強まってしまうためだ。軽く眼を閉じて、顎を引く。銃の恐怖を受け入れてはならない――僅かに乱れていた脳波がまた一定値に。
三國は側にいる子桜の存在を認識していなかった。思考である三國からは、子桜を認識することはできない。しかし、彼の銃弾は子桜を撃ち抜くことができる。
PCから顔をそらして、錬司は子桜の様子を窺う。いくら思考だとはいえ、打たれれば死んでしまう……。
「ここが始まりね」初めて子桜が眼を見開く。「彼の混乱を維持したまま……、次に」
子桜の囁き――三國と男がひび割れのような線が生じる。三國は顔を歪ませ、頭を抱えたまま掻き消えた。
彼女の身体に付着した返り血は消えることなく、残っている。
三國は歯を食い縛りながらトリガを引く。マズル・フラッシュ。真後ろに人が吹き飛び、立ち上がらなくなる。
手紙を受け取る三國。
電話を取る三國。
目的――どうにかして欲しい奴がいる。
ちょっとした頼まれごとのようにこなしてゆく。
アルバイトなら何百時間と働かなければ稼げないような金。少しでも減らそうと、通信販売に片っ端から電話をかけて、家に高級家具を増やし続けてみた。カタログ通りの理想的な家。理想の人間関係だけは買えない――家具を片っ端から打ち壊して、同じものを買う。それでも金の増えるほうが速い。
何度か銃口を口にくわえてみる。引き金が引けなくて、泣いた。表情を切り換えるのが難しくなり、面倒になって、眠そうな顔に固定された。
「次」
子桜が囁くと、三國の外見が大人びる。彼女は額を銃に押しつけた。体温が移ってしまっていて、あの心地よい冷たさはない。
空間がいびつに変形する。思考の時間を強制的に加速させた反動だった。
ゆがみが収まった。
子桜を中心として、周りに落ち着いた家具が配置された。彼女の足が応接セットのテーブルと重なった姿は、話の中だけに存在する幽霊を思わせる。
彼女は不快をこらえるような表情――波形が誤差の範囲とはいえ、微かにずれ始めた。錬司は告げるかどうか迷う。突然の声は集中力を極端に乱すため、査定ツール使用時に指示はできない。何度目かとはいえ、子桜の辛そうな表情が正視できない。
三國が子桜のすぐ側に現われ、彼女の横を通り過ぎた。現在の三國と、外見はもう大差ない。
床の上には年配の女性と小学生くらいの少女が倒れている。眼を見開いてはいるが、瞳孔は開き、生命を感じない。三國は落ちている百円玉を見つけた、というように二人の側に立つと、六発ずつ銃弾を撃ち込んだ。サイレンサが銃声を掻き消しているため、音が洩れることはない。
仕事をこなした――二人が天国に行けるよう願う。そんなものがあるとすれば。
金属音――ドアを開ける音。
錬司は虚ろな眼をドアに。
三國は走っていた。走りながら、銃口を後ろに向け、撃った。銃声。しゃがれたうなり声。走る速度を上げる。
グリップから伝わる重量――弾丸がなくなった。懐を探るが、新しい弾倉はもうなかった。
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