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unhelldust
〜 プロローグ 〜 Page:0001 
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プロローグ



 日が落ちて、世界は闇に包まれていく。あたしは電灯を点けない。月のない夜。程なく、照明は窓の外から差し込む街灯の明かりだけになる。
 薄暗い部屋の真ん中で、あたしは一人、立っていた。何をするでもなく。
 何をすればいいのかわからない。いつも、二人で過ごしていた時間に。
 机や棚の上に並べられたぬいぐるみ達は、街灯の白い光に照らし出されて、主を無くした部屋のもの悲しさを演出していた。
 椅子に腰掛けて、机の上のぬいぐるみの一つ、小さな猫を指先ではじく。一番新しいぬいぐるみだ。あの子の十三歳の誕生日に、あたしが贈ったもの。
 小さなぬいぐるみは壁に跳ね返って指にぶつかった。
「……盟子……」
 呼びかける声に、応えるものはもう亡い。音のない部屋に静かに響いて消えていくだけ。
 妹が死んだ。あたしの中には哀しみよりも、喪失感が大きい。ひどい姉だと思う。妹を亡くしたことを悲しむよりも、妹とともに過ごせない自分が辛いのだ。
 スカートのポケットから、小さなプラスチックの容器を取り出す。香水の瓶のような、少し洒落た形の容器。
 左手で頬杖をついて、右手の指先はその容器を机の上に転がすように玩ぶ。中に入っている青い液体が揺れた。
 街灯の光に透かしてみると、その液体は、青く、透明で、視界の全てを青く染める様だった。軽く振るようにすると、目の中に青い光が踊る。
「…………」
 音のない息を吐く。
 あたしは逃げ続けている。それが卑怯なことだとわかっている。だけどあたしは全てを受け入れてその中で生きていけるほど、強くはないらしい。
 薄暗い部屋の中で、あたしは独り。目を閉じると、記憶は過去へと誘う。……あの日は、雨が降っていた。



 雨が降っていた。車通りが多かった。車道ばかりがやたらと広くて、その両脇に申しわけ程度に付けられた歩道は狭かった。久しぶりに二人で買い物に出掛けた帰りで、買ったばかりの服を抱えて、あたしも盟子も浮かれていた。
 盟子はあたしの少し前を、踊るような足取りで歩いていた。髪を長く延ばしてるあたしと違って、盟子は髪をショートカットにしている。ステップを踏むような軽快な足取りに合わせて、短い髪がサラサラと揺れて、とても可愛らしかった。
「ね、お姉ちゃん」
「ん?」
「良かったね、あの青いワンピース買えて。すっごく似合ってるよ」
「うん。ありがと」
 そんな他愛のない会話が最後だった。
 きっかけは些細なことだった。日常はいつも、ほんの些細なきっかけで失われてしまう。そして二度と、元には戻らない。
「きゃっ!」
 短い悲鳴。盟子が濡れたマンホールに足を滑らせたのだ。
「盟子!」
 名前を叫ぶ以外に、何を言う間もなかった。
 突風が吹いた。短いけど強い風は、盟子の赤い傘をさらっていこうとする。そのまま、手を離してしまえば良かったのだ。でも盟子は、傘を放すまいとギュッと握って……。
 風にあおられた傘は車道の側に引っ張られた。バランスを崩した盟子の身体がそれを押さえ込めるはずもなく、盟子は傘に引っ張られるように車道に転んだ。
「盟子っ!!」
 二度目の叫び。それはほとんど悲鳴だった。
 何トンもあるような大きなダンプが、目の前を走り抜けた。
 ……あたしには、何が起こったのかわからなかった。
 ギキィィーッ!!
 激しいブレーキ音に我に返る。一瞬にして、全てが終わってしまっていた。
 微かに下げた視線の先。盟子はこと切れていた。跳ねられたのではなく轢かれていた。その小さな胸が…………無かった。
(……なに? ……どうしたの?)
 わからない。脳が理解することを避けている。
 まるで現実感のない姿。手品のマジックボックスのように、盟子の身体は二つに分けられて、その間にあるべき胸は……ぺしゃんこになって、アスファルトに張り付いている……。溢れる血が雨に流れて、あたしは何もわからずに、悲鳴を上げることすら出来ずに、ただ立っていた。
 何も聞こえなくて、雨の音だけが、いつまでも、いつまでも、あたしの耳から離れなかった。

 思い出すだけで、胸が苦しくなる。そんな思い。忘れられない。忘れてしまうわけにはいかない。でも、この胸の痛みはどうすればいいの?
 指はプラスチックの容器の蓋を開ける。きつめの香水のような匂いがする。
 この青い薬だけが、胸の痛みを和らげてくれる。決して消えはしないけど、少しの間だけ、痛みを忘れられる。
 アルコールで消毒したスポイトに薬を少しだけ吸わせた。
 目薬のように眼に射す。あまり知られていないことだけど、眼に射すだけで効く麻薬というのは少なくない。
 痺れるような感覚。身体がぬるま湯に浮くような、全てから解放されるような快感。
「……あぁ……はぁ、……はぁ……ぁ……」
 手が震える。あたしの目から零れ落ちたのは、青い薬? それとも……涙?
 虚ろな目で、容器に残る薬を見つめた。