小説TOP
unhelldust
〜 1,睡蓮の花 〜 Page:0002 
BACKPAGE NEXTPAGE


1,睡蓮の花




 僕は夢から覚めない。
 今、僕の目の前に居る少女。名前は知らない。彼女はまるで人形のように、ビルとビルの間の狭苦しい路地に座り込んでいた。積まれたビールケースの脇に寄り掛かるようにして、綺麗な両足を汚いコンクリートに投げ出して。
 長い黒髪が額にかかっていて、視界にも掛かっている筈だけど、それを払おうともしない。
 その瞳は、虚ろに宙を見上げていた。黒いレンズの様な、無機質な瞳。
 幻想のような少女の姿を、目は現実のものとして捉えていた。……僕は夢を見ているのかもしれない。半ば本気で、そう思った。



 九月も半ばのある日、コンビニのバイトで遅くなった僕は、街灯に照らされた小汚い路地で彼女を見つけた。
 汚いコンクリートに身を投げ出した、虚ろな瞳の少女。近所の高校の制服を着ている。たぶん、僕と同じか、一つ年下。
 まさかそんなモノを見るとは思ってもみなかったので、瞬間、僕は呆然としてしまった。
 彼女は虚空を見上げていた。ビルの隙間から見える空は、星一つなくて、ひどく狭い。
 大通りから漏れるネオンの光もここに届くまでに彩度を失い、無機質な光は薄暗い街灯に溶けてしまう。
 僕は目を離せなくて、声を掛けることもできなくて、彼女を見つめていた。
 気配を感じたのだろう。彼女は少しだけ首を動かして、僕の顔を見上げた。目は動かない。まるで機械のように首だけを動かして、彼女は僕の方に視線を向けた。
 髪がさらりと流れ、白い頬に触れる。黒髪に隠された向こうから、生気のない黒い瞳が僕に向けられていた。

 無機質な、黒いレンズの様な瞳の奥に、僕は自分の姿を見た。彼女の黒い瞳は、幻想の檻のように、僕を捕らえて離さなかった。
 僕はぼんやりとしてしまって、少女の虚ろな瞳を見つめたまま、動くことが出来ない。
 彼女はまるで、沼に咲く睡蓮の花のように、泥臭くて……綺麗だった。

 実際の時間にしてみれば、我を忘れていたのはそう長い時間ではなかった筈だ。無声映画のような世界から、大通りの車の音やコンクリートに染み込んだ油の匂いが、現実感を伴って蘇ってくる。
 彼女の横に膝をつく。彼女は機械のように首を動かして僕の顔を視線で追う。その目には変わらず生気がない。
 僕は何も知らないけど、彼女が自失していることは容易に想像が付いた。だから、少し大きな声で呼びかけた。
「おい、大丈夫かい?」
 反応のない少女。少し悪いとは思ったが軽く頬を叩く。
「……え? ……あ……」
 数度瞬きをした後、まるで切れていたスイッチを入れたかのように、彼女の瞳に生気が戻ってくるのがわかった。僕は安心して、軽く息を吐く。
「大丈夫?」
「……すみません。少しお酒を飲んだら、酔っ払っちゃって」
 言いながら彼女は、顔にかかる髪を指先で除けた。
 もう虚ろではない瞳が、僕を見上げる。彼女の瞳の色は深くて、僕は顔が熱くなるのを感じた。
「立てる? 立てるなら立った方がいい」
 照れ隠しに、ともすれば粗雑になりそうになる仕草に気を付けながら、手を差し出す。彼女は「すみません」と、その手を掴んで立ち上がった。
 スカートの埃を払って、改めて僕の方に顔を向ける。
「すみません。ありがとうございます」
 彼女が頭を下げると、髪がさらりと揺れて微かな香りが流れた。僕は少し怪訝に思う。倒れるほど飲んだにしては、彼女からは酒の匂いがしなかった。……ただ、少しきつめの香水のような匂いが鼻を擽った。