北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんの夫、チャールズ・ジェンキンスさん(7月18日に来日)の米軍による訴追問題は、司法取引で決着が図られる見通しとなってきた。ジェンキンスさんは、7月27日、米軍に所属する中立的な法律専門家である「独立法務官」(日本の国選弁護人にあたる)と面会する意思を日本政府に伝えた。司法手続きの説明を受けたうえ、自身が脱走などの罪を認め、他の脱走米兵(3人)の北朝鮮における情報提供に応じれば、軍法会議で刑が軽減される。
司法取引(plea bargaining=プリー・バーゲン)は、日本では、刑事裁判の本質にそぐわないとして採用されていないが、米国の刑事裁判ではごく一般的に活用されている制度だ。被告側と検察側が法廷外で交渉し、被告側が罪を認めたり、証言するなどして協力するかわりに、検察側が起訴事実を軽くしたり、一部を取り下げたりする。裁判費用の節約や裁判の時間短縮につながる場合が多く、汚職や組織犯罪の裁判でよくみられる。これは軍法会議でも認められていて、今回がそのケースにあたる。
例外だが、日本もかつて米国と司法取引を行ったことがある。1976年3月のロッキード事件のときだ。これは、米ロッキード社のコーチャン副社長らが、自社の航空機を売り込むため、約30億円の工作資金を田中角栄元首相はじめ政府高官らに贈った疑獄事件で、当時の三木武夫首相は、真相を究明するため、フォード米大統領(共和党)に親書を送り、事件が明るみに出るきっかけとなった上院公聴会の証言記録など、資料の提供を求めた。このとき日米両国政府は「日米司法共助協定」を締結し、日本の検察官が関係者の嘱託尋問のために渡米したが、証言を得るかわりに贈賄容疑を問わなかった
ジェンキンスさんは、朝鮮戦争(1965年)従軍(軍曹)の際に脱走して北朝鮮に亡命した。訴追の理由は、脱走、利敵行為、他の兵士への脱走教唆、軍秩序の破壊――の4つの米国統一軍事裁判法違反である。脱走中の期間は時効が適用されないため、いまも米陸軍の現役兵扱いである。本来なら、日本政府は「日米地位協定」や「日米犯罪人引き渡し条約」に基づいて身柄を米国に引き渡さなければならない。しかし、拉致被害者の家族であり、来日も病気治療のためという人道上の配慮からで、これまで強制措置がとられていなかった。
司法取引での決着が急浮上したのは、7月16日、ベーカー駐日米大使が安倍自民党幹事長らに「(在日米軍基地に)自ら出頭し、進んですべてを話し、司法取引すれば極刑はない」と語ったのがきっかけになった。また同20日には、米国家安全保障会議(NSC)のグリーン・アジア上級部長が、訪米中の中川自民党国対委員長に「できるだけ日本国民、曽我さん一家の気持を考えて処理する問題だ。落としどころはある」との見通しを示した。
こうしたことを考えて、政府は、法令遵守という日米共通の原則と、曽我さん一家への人道的配慮を両立させる現実的な措置としては、司法取引しかない、と判断した。そのためには、ジェンキンスさんが有罪を認めたうえ、軍法会議の求刑に納得する必要があり、ジェンキンスさんも、その詳しい事情を知るために独立法務官との早い機会の接触を求めていた。
当初は、米軍の訴追免除あるいは大統領の恩赦や特赦による打開策が模索されたが、現在、米国はイラクへ大量派兵しており、米軍の士気に影響するような政治決着はむずかしいとされていた。最近もイラクにおける虐待問題で、司法取引が米兵に採用されたが、日米双方にとって、この方法が最も無難という結論に至った。この司法取引では、ジェンキンスさんの健康状態や高齢などを配慮して、禁固や懲役を伴わない、「不名誉除隊」に処する可能性が高い。
|