近年の医学、生命科学の進歩により、われわれは多くの恩恵を享受することとなった。それと同時に、技術の進歩は生命に関して、かつては考えられなかったような複雑な操作を可能にした。生殖補助医療により、子供を欲する夫婦が、さまざまな形で児(こ)を得られるようになった。死を待つしかなかった人が、移植医療の進歩により社会復帰できる。将来の疾病罹患の可能性も、遺伝子診断で予測できるようになりつつある。 こうした進歩は、同時に「人の尊厳」という社会が共有している基本的価値観に混乱をもたらすおそれも生じている。その最たる例に「胚(はい)」の取り扱いがある。ヒト胚の取り扱いについては、人の存在や生命を最大限に尊重しようとする社会の基本的価値観を堅持しつつ、同時に、医学、生命科学の進歩による人々の健康と福祉に関する幸福追求の要請にも応えられるような社会規範が求められている。 総合科学技術会議・生命倫理専門調査会では「ヒト胚の取り扱いに関する基本的考え方について」という主題の議論を過去約三年間、計三二回にわたって重ねてきた。以下は、委員の一人であった私が議論を通じて考えてきたことである。 「胚」とは何か? ヒトは精子と卵子の受精による受精胚が着床し、胎盤が形成され、胚の成長が続き胎児となり出生する。生物学では、「胚」とは多細胞生物の個体発生初期にある細胞群を指す。 わが国にはクローン技術規制法という法律がある。「クローン人間を作ってはいけない」という主旨によって作られた法律だ。このなかで「胚」は「一つの細胞または細胞群であって、人または動物の胎内にあって発生の過程を経ると個体に成長する可能性のあるもののうち、胎盤形成の開始以前のもの」と定義されている。 ヒト胚には受精胚と、核移植および核の初期化という人為的操作によって作成される人クローン胚等の二種類がある。受精胚と人クローン胚は、法律的な取り扱いや生物学的性質において明確な違いが認められる。しかし、胎内に移植すれば人になり得る可能性をもつ、という点では同等であり、「人の生命の萌芽」という点からは同様に位置づけられる。ヒトの胚は、法律上、「人」でもなく「物」でもない。胚は「人」へと成長し得る「人の生命の萌芽」としてこの調査会でも特別に位置づけられた。以下、受精胚と人クローン胚について、それらを研究目的で取り扱うことの倫理的な意味を考えたい。
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