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論 点 「ヒト胚利用は許されるか」 2005年版
ヒト胚利用の恩恵が、いかに多大でも、「倫理」をしのぐことにはならない
[ヒトクローン胚についての基礎知識] >>>

わしだ・きよかず
鷲田清一 (大阪大学大学院文学研究科教授)
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▼対論あり

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生命技術の進歩に「倫理」が追いつかない
 医学研究と医療技術の発展が人類に画期的な恩恵をもたらしてきたこと、これを否定する人はいまい。かつて致死の病といわれた難病が、さまざまの医療技術によって克服されてきた。そして現在、遺伝子治療や、ヒトの受精胚を用いて皮膚や臓器を造る再生医療などの技術開発によって、人類はさらなる「福利」を手に入れようとしている。
 他方ではしかし、わたしたちは、急速に進化しつつあるこうした生命技術の行く末に、いいかえると、ヒトの発生過程に踏み込むこのような研究や医療の是非をめぐって、漠然とではあるが強い恐れや不安を抱いている。
 ここで「漠然」と言ったのは、生命過程への操作的な介入についてその是非を判断するときに参照すべき確かな「倫理」を、自分たちがもちえていないと感じているからである。これまで「倫理」の問題とならなかったような生命の状態が、先端的な医療技術によって人為的に生みだされつつあるからである。この間隙を埋めることができなければ、生命操作技術の拡大とそれに対する不安に歯止めはかけられない。いまの生命倫理のむずかしさは、ひとえに、生命科学と技術の予想を超える展開にわたしたちの「倫理」が追いついていないというところにある。
 かつては脳死問題、いまはヒト胚の取り扱いをめぐる問題について、なぜ格別に慎重な論議が必要かということには、さらなる理由がある。生命科学・技術の現在は、生死という、人が人として負わされた生命のもっとも基礎的な条件や、「人である」ことの意味、個人のアイデンティティの根拠、さらには社会秩序の根幹にかかわるものであるからである。
 これまでの医療技術もまた、人の生命過程に操作的に介入してきた。開腹手術のために麻酔技術が開発されたときも、ひとびとは人の意識を停止させるおぞましいものとしてそれを受け取った。しかし、それがやがて治療法として受容されていったのは、それが個体としての人の存在を、その生命の根源において変更するものではなかったからである。
 ヒト胚への操作的介入は、やがて人になりゆくヒトの「だれ」を変更する可能性がある。ここにわたしたちの得も言われぬ怖れや不安の根がある。さらにまた、この技術の帰趨(きすう)について、社会的に厳しい監視をしつづける必要が出てくる。


「人間の尊厳」と「人間の幸福」が対立関係に
 ひとがここに怖れや不安を抱くのは、人のいのちが「授かる」ものから「作る」もの、操作可能なものへと変わるということを予感しているからであろう。人間にはどうしようもない存在の条件というものが、意のままになるものへと変換される、そういう、いよいよパンドラの筺を開けるかのごとき問題が、眼の前に姿を現わしているからであろう。あるいは、ヒトはいつから「人」になるか「決める」べく人間自身が論議しているという構図にどこか抵抗をおぼえるからであろう。
 人間の存在は、それがいかなるものであれ、何かある目的のための手段とされてはならないというのが、おそらくわたしたちがもちうる最高の倫理規範(人間の尊厳)である。
 他方で、わたしたちはだれしも、幸福を追求する権利を有する。自身のみならず他人の幸福を守る義務を有する。その権利と義務が、先の最高の倫理規範と背馳(はいち)しないときは問題はない。ところが、現代の生命操作技術、より具体的にはヒト胚研究とその技術的応用をめぐっては、その二つの考えが背馳するような状況が出現する。再生医療への取り組みは、ヒト胚の研究、つまりはヒト胚への操作的介入を前提とするからである。
 再生医療は難病克服をはじめとしてさまざまの医療上の可能性を開く。これによって多くの人々に多大な恩恵がもたらされると、「夢」のように語られる。しかしそれは、ヒト胚の破損や実験目的でのその作成を前提とする。つまり、人間、あるいは人間になる可能性のあるものの手段化ないしは資源化を前提とする。ここでは、「人間の尊厳」という倫理的要請と、「人間の幸福」への希求とが、二者択一という対立関係に入るのである。


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論 点 「ヒト胚利用は許されるか」 2005年版

対論!もう1つの主張
「ヒト胚の尊厳」を理由に難病治療の可能性の芽をつぶすべきではない
垣添忠生(国立がんセンター総長)


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personal data

わしだ・きよかず
鷲田清一

1949年京都府生まれ。京都大学文学部卒。同大学院文学研究科博士課程修了。関西大学教授等を経て、現在、大阪大学教授。専門は現象学。モード批評を哲学として確立した『モードの迷宮』で89年サントリー学芸賞受賞。その後、身体、生と死へとテーマを深め、現場の問題に哲学を通して関わる「臨床哲学」を構想。99年刊『「聴く」ことの力』は医療・教育など多方面で話題になり、第3回桑原武夫学芸賞受賞。01年より総合科学技術会議生命倫理専門調査会委員。近著に『教養としての「死」を考える』など。



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