医学研究と医療技術の発展が人類に画期的な恩恵をもたらしてきたこと、これを否定する人はいまい。かつて致死の病といわれた難病が、さまざまの医療技術によって克服されてきた。そして現在、遺伝子治療や、ヒトの受精胚を用いて皮膚や臓器を造る再生医療などの技術開発によって、人類はさらなる「福利」を手に入れようとしている。 他方ではしかし、わたしたちは、急速に進化しつつあるこうした生命技術の行く末に、いいかえると、ヒトの発生過程に踏み込むこのような研究や医療の是非をめぐって、漠然とではあるが強い恐れや不安を抱いている。 ここで「漠然」と言ったのは、生命過程への操作的な介入についてその是非を判断するときに参照すべき確かな「倫理」を、自分たちがもちえていないと感じているからである。これまで「倫理」の問題とならなかったような生命の状態が、先端的な医療技術によって人為的に生みだされつつあるからである。この間隙を埋めることができなければ、生命操作技術の拡大とそれに対する不安に歯止めはかけられない。いまの生命倫理のむずかしさは、ひとえに、生命科学と技術の予想を超える展開にわたしたちの「倫理」が追いついていないというところにある。 かつては脳死問題、いまはヒト胚の取り扱いをめぐる問題について、なぜ格別に慎重な論議が必要かということには、さらなる理由がある。生命科学・技術の現在は、生死という、人が人として負わされた生命のもっとも基礎的な条件や、「人である」ことの意味、個人のアイデンティティの根拠、さらには社会秩序の根幹にかかわるものであるからである。 これまでの医療技術もまた、人の生命過程に操作的に介入してきた。開腹手術のために麻酔技術が開発されたときも、ひとびとは人の意識を停止させるおぞましいものとしてそれを受け取った。しかし、それがやがて治療法として受容されていったのは、それが個体としての人の存在を、その生命の根源において変更するものではなかったからである。 ヒト胚への操作的介入は、やがて人になりゆくヒトの「だれ」を変更する可能性がある。ここにわたしたちの得も言われぬ怖れや不安の根がある。さらにまた、この技術の帰趨(きすう)について、社会的に厳しい監視をしつづける必要が出てくる。
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