誘拐した小1女児にいたずらし、殺して道端に捨てたうえ、奪った携帯電話のメールで犯行を知らせるという冷酷かつ異常な犯罪を裏づけるように、元新聞販売店員・小林薫被告(36歳)の供述内容には反省のかけらもなかった。ほかにも、「自分のやったことは人間的でないと思っているが、殺害したことは後悔していない」、「自分の味わってきた苦しみを人にも味わわせてやろうという生き方を選択した。世間は自分を冷たい目で見ている」、「世間に迷惑をかけたことはわかっているが、頭を下げることはしたくない。全国に小林薫の名を知らしめたことに満足している」――といった自分勝手な言い分をつらねた。
小林被告が名指しした宅間守被告は、2001年6月、大阪・池田小で児童8人を殺害、15人に傷害を与えた犯人で、大阪地裁で死刑判決(03年8月)を受けたが控訴せず、同年9月、死刑が執行された(40歳)。公判では、「家が安定して頭のよい子でも、自分みたいなアホに殺されるかも知れない不条理さを世の中にわからせたかった」とか「かかってこい。幼稚園ならもっと殺せた。死ぬことは全くびびっていません」といった暴言を吐いた。判決文では「自己中心的で他人を顧みられない、著しく偏った人格の持ち主」と認定された。犯罪精神医学が専門の小田晋帝塚山学院大教授は、宅間被告には(1)自己愛性人格障害(自分に特権意識を持つ)、(2)反社会性人格障害(すべてを他人のせいにして合理化する)、(3)妄想性人格障害(物事を悪意に解釈する)――の「3つが並存している」と分析した(読売新聞03年8月25日付)。
宮崎勤被告(1、2審で死刑判決、上告中、)は、1988年8月から89年にかけて埼玉県内で幼女4人を誘拐し殺害した幼女連続誘拐殺人事件の犯人(犯行時26歳)。自宅に6000本以上のわいせつビデオなどを持っていたため、その“おたく性”と犯罪との連関が論争になった。犯行後も「いまもさめない夢をみているようだ」と語り、二重人格が取り沙汰された。
小林、宅間の両被告とも「世間」、「世の中」から受けたという仕打ちに対する復讐をにおわせている。また、被害者や遺族の気持をみじんも考慮しないところなどは、冷血というより、倫理観が完全に欠如しているという点で共通している。加えて、簡単に自暴自棄になれる、つまり生への執着が極めて希薄なところもよく似ている。ふたりのような凶悪な犯罪者がなぜ生まれたのか。家庭環境や学校教育、社会的不適応性などさまざまな要因が考えられようが、私たちが納得できるような解答は得られないだろう。しかし、現代社会がこうした無惨な人間をつくりあげているのもまた事実なのである。
連続殺人犯、西口彰被告(1969年12月、死刑執行)をモデルにした『復讐するは我にあり』(佐木隆三著、講談社刊、1975年11月)は、悪行を重ねる主人公が、最後は罪の深さに目覚めて穏やかな死を迎えるというノンフィクションだ。この題名は、新約聖書の「ローマ人へ」のなかにある言葉「主、いい給う、復讐するは我にあり、我これを報いん」からとったという。ここでいう我とは、主イエスのこと。その意味は、悪に堪え忍べ、そうすれば神は必ず悪を裁き、わたしたち人間を悪から守ってくれる、というものだ。鬼畜を産み落としたのは、はたして社会のせいなのか、それとも人間の業のなせるわざなのか。
|
|