11月9日、第43回衆院選が行われ、自民党、公明党、保守新党の与党3党は、合計277議席を獲得、野党の203議席を大幅に上回った。これで衆院(定数480議席)における絶対安定多数を確保した。
絶対安定多数とは、衆院の常任委員会の委員長ポストすべてを与党が占め、各委員会で与党委員が野党委員を上回るのに必要な議席数で、現在は269議席。また、安定多数は、252議席で、これは与党が委員長を独占し、委員数では与野党が同数か、与党委員が野党委員を上回ることを指す。過半数(241議席)とともに、いずれも選挙の勝敗を判定する際の目安とされる。というのも、議会政治において、法案の議決や政策決定の際、最終的にものをいうのは多数決という数の力、つまり議席だからだ。それは、いうまでもなく選挙で決まる。
今度の衆院選では、自民党は、解散時から10議席減の237議席にとどまった。これで1993年7月(223議席、中選挙区制で定数511)、小選挙区制に移行した96年10月(239議席、定数500)、2000年6月(233議席、定数480)についで4回連続の過半数割れとなった。ただし自民党は、開票終了直後には無所属で当選した3人を追加公認。さらに11月10日、熊谷弘代表が落選した保守新党(衆院4人、参院3人)が解党して自民党に合流を決めた結果、244議席となり、ようやく単独過半数を確保した。
自民党が衆院選で過半数割れしたのは、上記のケース以外にも76年12月(249議席)、79年10月(248議席)、83年12月(250議席)と3回ある。いずれも中選挙区(定数511議席)の時代だった。76年のケースは「三木おろし」という党内抗争のすえに初の任期満了選挙となり、三木武夫首相は敗北の責任をとり辞任した。また79年には、大平正芳首相に辞任をせまる反主流派との間でのちに「40日抗争」と呼ばれた派閥抗争が激化した。決着は、首相指名選挙の場にもちこまれ、大平首相と福田赳夫前首相の2人が決選投票で争う異例の事態となった。93年は、自民党が分裂し、解散・総選挙に打って出た宮沢喜一首相は敗北責任をとり辞任し、その結果、反自民の7党1会派(社会、新生、公明、民社、日本新党、新党さきがけ、社民連、民主改革連合)が擁立した細川政権が誕生したもので、まだ記憶に新しい。
解散・総選挙の結果、獲得議席数が過半数を上回るかどうかは首相の座にストレートに結びついている。このため、獲得議席数の目標は控えめに設定するのが通例となっており、今回も小泉純一郎首相は解散時(247議席)より6議席少ない「単独過半数の維持」を強調していた。これはハードルを低くすることで、目標に達しなかったとき、野党を含めた反小泉勢の批判をかわしたいという思惑が働くからだ。また、開票の際、「与党3党で過半数を維持できれば国民の信任をうけたといえる」とさらにハードルを下げたのも下降気味の自民党支持率を意識した発言だった。
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