皇太子(徳仁=なるひと)殿下が、病気で静養中の雅子妃殿下について語った発言が内外に大きな波紋を呼んでいる。訪欧(デンマーク、ポルトガル、スペイン3カ国、24日まで)に先立つ5月10日、東宮御所での記者会見で、「雅子は、国際親善を重要な役目と思いながらも外国訪問をなかなか許されなかったことに、大変苦悩していた。それまでの雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」と、訪欧に同行できない理由を率直に打ち明けられた。かつてない異例の発言だった。
それ以上中身への言及は避けられたが、この発言は公の場での私的感情を伴ったものだけに、各マスコミが大々的に取り上げ、国民の関心も高まった。5月17日、天皇、皇后両陛下は、渡辺充侍従長を通じて「社会的影響の大きい発言であり、改めて殿下から具体的内容を説明されなければ、国民も心配しているだろう」との意向を宮内庁に伝えられた。いっぽう、この問題は国会でも取り上げられ、羽毛田信吾宮内庁次長は「大変重いものとして真摯に受け止めている」と答弁した。
皇太子殿下の発言の背景として、関係者らが指摘するのは「お世継ぎ」問題の存在である。具体的には、昨年12月11日、湯浅利夫宮内庁長官が会見で「秋篠宮(皇太子殿下の弟)さまのお考えはあると思うが、皇室の繁栄を考えると、3人目を強く希望したい」と語った、いわゆる"第3子発言"だ。すでに2人の内親王(女子)がおありになる秋篠宮ご夫妻に親王(男子)を産むよう期待したもので、明らかに皇太子ご夫妻に対して、また秋篠宮ご夫妻にも配慮を欠いた問題発言とみられた。
というのも、皇太子ご夫妻には2001年12月1日に長女・愛子さま(敬宮=としのみや=内親王)が誕生したが、皇位継承権のある親王でなかったことに相当のプレッシャーをお感じになっていると伝えられていたからだ。雅子さまは、こうした「お世継ぎ」期待の重圧による心労などから昨年、体調を崩して公務を離れ、12月4〜8日には帯状疱疹で入院したばかりだった。そんな折りの長官発言だけに雅子さまのご心痛をいっそう重くしたのは想像に難くない。さる3月25日から4月26日の間は東宮御所を離れ、軽井沢の実家の別荘でご静養されていた。
雅子さまが、1993年6月、外交官の職を辞してご結婚、皇室にお入りになったとき、殿下が「皇室外交でキャリアを役立ててほしい。私が一生全力で守る」と約束されたのはよく知られている。しかし、雅子さまのこれまでの外国訪問は5回にとどまり、秋篠宮妃の17回、皇后陛下の22回に比べると格段に少ない。殿下は、民間出身である皇后美智子さまのもとでこれまでの皇室における"帝王学"の慣例を破るような新しい教育を受けてこられた。学習院大学で歴史学を専攻されたのもそのひとつである。国際化時代の「開かれた皇室」の象徴として国民の敬愛を集めてきた。
皇位の継承を規定した「皇室典範」(1947年制定)には、皇位は世襲の男系の男子が継承すると定められており、女帝は認められていない。皇太子ご夫妻に男子が誕生せず、仮に秋篠宮の第3子が男子だった場合、この親王が次の次の天皇になることになる。愛子さまを第127代の女帝として認めるかどうか、皇室典範の改正問題が浮上してくるのはこのためだ。
今上天皇(明仁=あきひと)陛下は第125代目だが、じつは、飛鳥・奈良時代と江戸時代に女帝は存在した。第33代推古天皇を皮切りに、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、そして第117代後桜町天皇までの計8人(うち皇極と斉明、孝謙と称徳は2度皇位につく重祚=ちょうそで同一の天皇)。宮内庁の見解によると、女帝は「つなぎ」と位置づけられている。天皇の崩御後に即位したり、皇太子が幼少のためなど、特別のやむを得ない事情があるとき、いわば臨時的に即位してきた。
皇位継承が男系男子に限るとの通念は、8世紀には朝廷で定着し、明治憲法(大日本帝国憲法)下の旧皇室典範で初めて成文化された。昭和憲法(日本国憲法)下では、男女平等や基本的人権を尊重する立場から、女帝の否定は問題があるとの議論はされたものの、皇室典範は旧来通りに踏襲された。なお、日本のように憲法とは別の法律で皇位(王位)継承を定めているのはスウェーデン、デンマークで、憲法で規定している国にベルギーやオランダがある。
衆院の憲法調査会では、ことし1月31日、女帝を容認する方向で議論を始めた。この背景には、皇太子ご夫妻の「お世継ぎ」問題が話題となり、女帝への関心が急速に高まっていることがある。最近のマスコミ世論調査では女帝を容認するとの回答が圧倒的多数を占めた。
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