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論争を読み解くための重要語
趙紫陽氏死去
2005.01.20 更新
 1月17日、元中国共産党総書記の趙紫陽氏が北京市内の病院で死去した。85歳。「改革・開放路線」を推進した最高実力者、ケ小平・中央軍事委員会主席を胡燿邦・元総書記とともに支え、経済だけでなく政治の民主化にも理解のあった改革派の旗手だった。しかし、1989年6月、「天安門事件」で保守・長老派から「動乱を支持し、党分裂の誤りを犯した」として総書記など全役職を解任され、その後15年間、自宅で軟禁状態に置かれていた。

 趙氏は、小学生のときに共産主義青年団に参加し、19歳で共産党に入党した革命第二世代。文化大革命で追放されたが復活、75年、四川省の党委員会第一書記に。その後、省長として80年までの5年間、農業経営請負制や企業自主権の拡大を実行し、生産を飛躍的に拡大させて「四川の経験」とたたえられ、「メシが欲しければ、趙紫陽を探せ」という流行語を生んだ。こうした経済運営の実績をケ氏が評価、79年、政治局員に抜擢し、首相、政治局常務委員と出世した。胡氏とは「車の両輪」(ケ氏)といわれ、改革・開放路線の定着に貢献した。87年1月、胡氏のあとに総書記になり、資本主義的な手法を大胆に取り入れた「社会主義初級段階論」を発表、沿海地区発展戦略に取り組み、社会主義市場経済を経て今日に至る高度経済成長の基礎を作り上げた。

 89年4月、急死した胡氏を追悼する学生や市民のデモが民主化要求運動に発展。6月4日、戒厳令が布告され、戦車が出動して鎮圧するなど、319人が死亡する「反革命暴乱」(中国政府)となった。これは、76年、天安門広場での周恩来首相追悼デモを人民解放軍が武力で制圧(第一次天安門事件)したのに続くもので、第二次天安門事件と称された。このとき、趙氏がハンスト中の学生を「来るのが遅すぎた。申し訳ない」と見舞ったことが、保守派にとがめられた。ついで趙氏の後ろ盾だったケ小平氏も保守派を支持したことから失脚し、後任に上海市党委員会書記だった江沢民氏が就任した。

 04年の貿易総額が初めて1兆ドルを突破(約120兆円)、日本を抜いて米国、ドイツに次ぐ世界第3位の貿易大国となるなど、中国は沿岸都市を中心に経済成長が続く反面、とり残された内陸部との間に貧富の格差が広がり、そのいっぽうでは党幹部等の腐敗・汚職が横行し、不満を抱いた農民らの暴動が各地で相次いでいるという。こうした中国に対し、世界は「民主・人権などの面では進展がみられない」(台湾行政院)と見ている。貧富の格差を背景に今後、趙氏の名誉回復要求と合わせ、新たな民主化運動も予想される。17日の国営新華社通信は、死亡報道をテレビ、ラジオで使用しないよう連絡するなど、胡錦濤指導部が神経質になっている。



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