戦後の日本の防衛政策は、(1)専守防衛、(2)軍事大国にならない、(3)非核三原則、(4)文民統制の確保、などを基本原則として展開されてきた。日米安保体制のもとで、日本は自国の防衛に専念すればよく、日本周辺の武力事態については米軍にお任せする形をとってきたのである。その帰結として、自衛隊の装備も、核兵器はもとより、ICBM(大陸間弾道弾)、長距離爆撃機、空母などの戦略的な装備は除外する方針を堅持してきた。 ところが、冷戦が終焉し、世界の安全保障環境は大きく変わった。最大の変化は、世界各地で複雑かつ多様な地域紛争が頻発するようになったことである。それにともない軍事力の役割は、従来の「国の防衛」に加えて「域内の秩序維持」「世界的規模での協調」などの分野でも期待されるようになった。 その流れで、自衛隊にも「地域や国際社会共通の価値」のために国際的な貢献をすることが要請されるようになった。この変化に対応したのが、一九九二年(平成四年)の国連平和協力法に始まり、周辺事態安全確保法、テロ対策特措法、武力攻撃事態対処関連三法、イラク復興支援特措法と続く自衛隊関連法制の整備である。これらの法改正により、国内に限られていた自衛隊の任務は、国連PKOや地域秩序維持のための後方支援活動などで、海外にも展開されることになった。従来の専守防衛の自衛隊とは、任務の態様において明らかに変わったのである。 もう一つの変化は、情報通信技術の飛躍的な進歩によって、兵器・装備のハイテク化・高性能化が進み、攻撃的兵器と防衛的兵器の境界がきわめて曖昧になったことである。 たとえば、海上自衛隊の主力艦・イージス艦や、空飛ぶ司令室とよばれる早期警戒管制機(E‐767AWACS)などは、見方によっては攻撃型の装備ということもできる。この二つに限らず、近年のハイテク兵器は攻撃型か防御型かの線引きが困難になったのは確かだ。 さらに専守防衛の様相を変えたのが、二〇〇三年三月、文部科学・総務・経済産業の三省が合同で開発した二基の情報収集衛星である。一基は光学衛星で、地上を細かくカラーで撮影できる。もう一基はレーダー衛星で、自ら電波を発信し、地表で跳ね返って戻ってきた信号を分析して画像を合成する。 日本政府は非公開にしていたが、米航空宇宙局(NASA)はこの二つの衛星が朝鮮半島の上空を通過することを公表した。つまり、この衛星は、核とミサイル開発で日本に脅威を与える北朝鮮を偵察する衛星だったのである。偵察衛星はさらに二基打ち上げられる予定で、日本の軍事情報収集は大きく前進したことになる。しかし、この偵察衛星の打ち上げで、北朝鮮が警戒心を抱いたことは間違いない。専守防衛の範囲とはいえ、H2Aロケットの威力を示した軍事衛星の打ち上げが、周辺諸国の注目を集めたのは事実である。こうなると、やはり専守防衛の再定義が必要な時代になったといえるかもしれない。
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